▽10.

「あ、Nだ」

僕がほとんど条件反射で緑のもふもふに言うと、それは青い瞳を丸くしてこちらを振り向いた。
昇降口で落ち着かない様子で外を気にしていた彼は、僕の顔を認識しては気の抜けた笑顔を見せる。それにしても、もうとっくに授業も終わって放課後の時間だ。部活をやってるならともかく、用のない生徒は帰ってしまっているような時間である。……記憶に間違いがなければ、Nは部活に入っていない。要するに彼が何故こんな時間にこんなところで挙動不審になっているのか甚だ疑問なのだ。

「トウヤだ」
「何してんの」
「うん、今日三者面談があって、時間まで待ってる」
「ああ、そっか、3年は三者面談の時期か」

僕も再来年の今頃は進路のことで頭を悩ませることになるんだろうな。などと他人事のように思うのは、未だに進路について深く考えられない証拠だろう。一応進学を希望しているものの、具体的な目標はない。ただ自分の学力に合っていて、多少は得意な理系の大学に進学できたらいいなと思う程度だ。今から塾や課外学習に行っている同級生の気持ちなど、まるでわからない。携帯を取り出し、サイドキーを押して背面に表示されるデジタル数字を見る。もう夕方の5時を過ぎた。

「何時から?」
「5時20分からかな。ただ、前の人が長引くかもしれないから」
「ふうん。……Nはどこの大学行くわけ?」
「えっ」
「え?」

なに。何か変なこと聞いた?
こちらを見て驚いたように目を丸く彼に、思わずたじろぐ。すると彼は、一瞬だけ戸惑うような仕草を見せた後に、いつも通り笑って答えた。

「僕、進学しないよ」
「え、嘘、就職すんの?」
「うん」
「うん、てお前……頭良いのに。何だよ、父親に何か言われたの?」
「違うよ、自分で決めたんだよ。早く就職して一人前になって、家に、帰って……」
「あんな父親放っておけばいいだろ。……まあ、ダメ女の世話になるのも嫌だろうけど」

理解しかねる、と思うのが、Nの父親だった。Nの家の事情はある程度知っているが、僕はどうにも彼の父親が気に入らなかった。確かに同情されるべき点はある。だが、僕も母子家庭で片親なのだ。母さんは父さんがいなくてもしっかり僕とトウコを育ててくれた。落ち込むことはあっただろうけど、堕落なんてしなかった。頑張れる人間が確かにいるのに、何で彼の父親は頑張れなかったのだろう。
――情けない人間だ。
そう思うと、何だかひどく苛々してきた。
それに、Nを面倒見ている女性もだいぶ癖がある。Nが心配といえば心配だった。

「彼女はダメ女なんかじゃないよ」
「この間会ったけど態度悪かったよ、かなり」
「そ、それは……えっと、サクはシャイなの!」
「今思い付きで言ったろ。それより、三者面談は誰が来るの? 父親、なわけないか」
「うん、サクが来る」

そんな彼らを大切に思うNは、一体どんな気持ちなのだろうと思う。どんなふうに、世界が見えているのだろう。
ぼんやりとそんなことを思っていると、昇降口の向こう側から人影が見えた。ああ、ダメ女だ。意外にもスーツ姿でやって来た彼女は、足早にこちらへと向かってきた。

「サク!」
「N、ごめん、ちょっと仕事が押して。時間は間に合ってる?」
「あと5分あるから大丈夫」
「よし。あ、チビがいる」
「誰がチビだよダメ女」
「ヒールで踏み潰そうか。深さ5センチの風穴空けてやるわよ」
「サク、ほら、早く行こうよ。時間になっちゃうよ」
「……チッ命拾いしたね」
「どこの悪役だよアンタ」

バッグからスリッパを取り出した彼女は、それに履き替えてNと共に歩いていく。「またね」と言って面談場所に向かう彼らを見送りながら、僕もまた帰宅するべく足を動かした。



▽11.

「え」

Nの一言に、右手に持っていた資料を落としたアデク先生に苦笑した。まあ、妥当な反応だろうと足元に滑ってきたプリントを拾う。大学のオープンキャンパスの資料だ。名前を見る限り偏差値が高い理系の大学だったと思う。担任教師が進学させる気でいたのだから、やはりNの学力を思うと勿体無いのだろう。
この高校は、文化祭の前に3年のみ三者面談がある。もちろん内容は進路が大部分を占めている。私のような遠い親戚が保護者として来るのもどうかと思うが、こればかりは仕方ない。それに、私が三者面談や保護者懇談会に出ること自体Nが1年のころからあった。ゲーチスさんにはさんざんこのことで頭を下げられたが、向こうの家とはこういう約束だったのだ。特に問題はない。
拾い上げた資料を差し出すと、アデク先生は我に返ったように咳払いをしてそれを受け取る。そして伺うようにNと私を交互に見て、「就職か」と息を吐きながら呟いた。

「その学力だと、勿体無いと思うがなあ」

先生はとんとんと指先で資料を小突いた。それはNの成績が記されたプリントだ。順位は常に一桁に収まっている。評定の数字も、苦手な科目はともかく他は高い。

「しかし何故就職を?」
「はい、実は、早く自立がしたくて」
「自立、か」
「早く自立して、家に帰って、父を助けられるようになりたいんです」
「……」

アデク先生は、Nの家の事情を知っている。その上、ゲーチスさんとは顔見知りだった。Nの口から出た父という言葉に、先生は僅かに眉間に皺を寄せる。

「これは他の誰でもない。Nよ、お前自身の人生だぞ」
「ボクの人生なら、なおさら、早く」
「人生は他人に捧げるものではない」

Nの就職に、納得しない人間がいることは覚悟していた。しかしそれが、まさか頼りになる担任が一番最初だなんて。口出しするにも、Nの問題なのだから私は何も言えない。言えば彼の覚悟や意志をブレさせることになる。ただ黙って、隣で見守るだけだ。Nは私に控え目に視線を送って、俯きながら言葉を発した。

「でも、そしたら、サクは」
「!」
「ボクに、人生を食い潰されるだけのサクは、どうなるの」

Nの言葉に、息を呑んだ。

「3年も、ボクやゲーチスの面倒を見て、自分の人生から軌道がズレたサクが」

――私は、そんなこと思ってないよ。言いよどむ彼の、膝を掴む指先が震える。何をそんなに怯えているのか。何をそんなに恐れているのか。それを宥めるように手を重ねた。先生は少しだけ表情を曇らせ、Nを見る。私は僅かな沈黙を置いて口を開いた。

「私も、この子の父親も、この子の意志を尊重します」
「!」
「進学でも就職でも、自分が選んだ道に進むのなら、その先に倖せになれることを願うだけです」
「そうか」
「若いんだから、挫折したって何だってできますよ」
「……」
「私もあの人もいますから」

もう、独りではない。
支えようと手を伸ばしてくれる人が彼にはたくさんいる。選んだ道で失敗したのなら、そこからまた始めることができるくらいの強さも持っている。彼はもう。

「それに、先生もそんな中の1人だと信じてますよ」

私が言うと、先生はおかしそうに笑いながら全力でサポートすると言ってくれた。



▽12.

「厄介なイベントを1つ乗り切ったわけだ」

帰り道、夕飯のおかずが入ったビニール袋を右手にぶら下げながら私が言うと、Nは小さく笑った。辺りはもうほとんど暗い。徐々に日が延びてきている時期だが、やはり気温まではすぐに追いつかないのだろう。肌寒さを感じながら、ヒールの音がやたらと鼓膜に触れるのを感じていた。

「でも、もう、最後になるんだよね」
「N?」
「サクと、進路で悩むのも」
「……不安?」
「……」

目を伏せ、少しだけ歩く速さを緩めた彼に目を細める。暗闇に溶けてしまいそうなほど儚く映る姿に、そっと手を伸ばした。

「私は別に、Nやゲーチスさんに人生を食い潰されただなんて思ってないよ」
「……」
「Nがいなければ私はどうせ1人だった。そっちの方が、ずっと詰まらない毎日だった」
「でも、だって」
「Nがもし私から離れていきたくて自立したいって言うなら何も言わない。でも、迷惑だとか苦労だとか考えて離れていこうとするなら、私はNの目には矮小な人間に映るってこと」
「違うよ」
「……」
「だって、だってもう、ボクは『子供』じゃ許されない」

――社会的には、子供ではなくなるのだから。

「ちゃんと自分の足で立たなきゃ、歩かなきゃならないだろ」
「……」
「ダメなんだよ。ボクは、人間として、ちゃんとした人間として、大人にならなきゃ」
「N……」

立ち止まる彼につられて、足を止めた。僅かに揺れる瞳をこらえた彼が、唇を噛み締めて私を見る。

「だから」
「……」
「だからボクはちゃんとした大人になるから、そしたら、君を幸せにするよ」
「!」

予想しない言葉に、つい吹き出して笑みを零した。緑の髪を後ろからくしゃくしゃと撫でて、手を引いて歩き出す。

「何それ、プロポーズ?」
「ち、違うよ。そういうんじゃなくて……!」
「一番に幸せにするべきはN自身でしょう」
「……」
「だから、恐がることはないよ。自立したって大人になったって、私はいつだって帰りを待ってるし、ゲーチスさんも同じだから」

自立することと、独りになることはイコールじゃない。だから恐がらないで欲しい。未来に進むことに、怯えないで欲しい。諦めないで欲しい。私は一緒にいる。味方でいる。不安や恐れを抱えて、押し潰されてしまいそうな時はいつだって頼ってくれていいんだ。力になりたいと思うのは、私も、あの人も同じだから。


「倖せな門出と未来を祈っているよ」


どうか反芻した苦痛すら呑み込んでしまう暖かい未来になるよう。
その顔が、ずっと優しく笑っているよう。





20110503




人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -