▽4.

「起きてる?」

微睡んでいた意識が、不意に浮上する。控え目に発せられた言葉を理解するのに僅かな間があった。胸元から聞こえた声に、おもむろに瞼を持ち上げる。真っ暗闇の視界が、すぐそばにある体温に気付いた。
フワリと鼻孔に纏わりつくシャンプーの香りに、密着してくる体温に腕を回す。ついでに緑色の髪を梳くように撫でた。青い瞳が暗がりの中で揺れる。

「眠れないの?」
「……ん、少、し」

……やはり何かあったのだろう。くぐもった声が、僅かに震えているように思えた。
夕食の時は何もないと言っていたが、彼がこうする時は決まって何かある。高校に上がったばかりの時も、物珍しがる同級生に嫌がらせ紛いのことされていたことがあった。その間、彼は毎日のように私の布団の中に潜り込んできたのだ。我慢や口を噤むことばかり覚えて、肝心の痛みを訴えることをしない。
痛みを感じる幅も大きさも、それを受け入れる為の器も人それぞれだ。他人が平気なそれも、ある人はどん底に突き落とされるほどの痛みを伴うかもしれない。

自分が平気だからといって、他人もまた平気とは限らないのだ。彼の痛みの振り幅は、人よりずっと大きい。もしそれを馬鹿だと、弱いと嘲笑う人間がいるのなら、この世界はどうしようもなく残酷だ。
しがみつくように体幹を寄せてくる彼を抱き締めた。

「何、何か言われたの」
「……なんで、わかるの」
「言ってごらん」
「嫌いに、なら、ない?」

暗闇に慣れた目が、彼の輪郭をとらえ始める。白く細い指先が、私のパジャマの袖を掴んだ。

「ならない。ならない」
「ほんと……?」
「Nは人に甘えるのが下手。第一嫌うくらないなら家から追い出してる」
「……ゲーチスのことを」
「!」
「親としてダメな人間だって、言われた」
「……それで」
「だから、『今は休んでるだけでダメじゃない』って、言った」
「あとは」
「ボクは『捨てられたんだ』って、言われた」
「……」

どうにも、彼の境遇に対して辛辣な言葉を並べる人間は消えない。そういう人間が心底煩わしい私は、やはり過保護なのだろう。
目をそらし、俯いた彼の頭を撫でる。

「明日も早いんでしょ。もう寝た方がいいよ」
「待って、あと、あと1つ、言いたいことがあるんだ」
「なに? 進路?」
「なんでもわかっちゃうんだね。すごいや……」
「学費ならゲーチスさんが自分で出すって言い張ってたから心配ないよ。私も協力するし。なんなら高校卒業してもここにいてもいいんだよ」
「違うんだ」
「?」
「進学じゃ、なくて……就職、しようと思って」



▽5.

「就、職?」
「はい」
「Nが、言ったのですか」
「私もびっくりしましたよ」

そうですか、と、唇だけで彼は呟いた。赤い瞳が未だ戸惑うように手元に落とされている。ふと、壁に掛けられた時計に視線を向ける。もう11時半だ。昼食はここで取らせてもらおう。白い湯気を零すカップと彼を交互に見ながら、ゆっくりと口を開いた。

「早く自立して貴方のもとに帰るんだそうですよ、ゲーチスさん」
「……」
「ついでに私に恩返ししたいそうです。泣けました」

カップに残っている珈琲を一口だけ口に含んだ。口内に広がる苦みを飲み下しながら、向かいに座る男性の瞳を眺める。
――感動、というより、戸惑っているのだろう。彼は彼で自分は息子に厭われていると思い込んでいるので厄介だ。確かに放置してきた。しかしそれも接することに怯えていたからだ。
もっとも、そんなもの言い訳にもならないけれど。

「早いですよね、中学卒業前のあの子を引き取って、いつの間にか高校卒業間近ですから」
「……その件については、感謝しています。私があの子はおろか自己管理すらできないあまりに」
「私が面倒見ますって。私と結婚すれば面倒事は万事休すですよ」
「貴女は相変わらずですね。お気持ちだけいただいておきます」
「貴方も相変わらずつれませんね」
「……あの子の面倒を見るために、貴女が自分の時間を割いてくださったことは申し訳ないと思っています。貴女はまだ若い。これからだ。私など、10以上年の離れた男の人生に同情で付き合う必要はありません」

表情を変えずに言った彼に、苦笑を零す。
最近は、週に1回のペースでゲーチスさんを訪れている。出会った当初は、見るからに不健康そうな、脆弱そうな印象を受ける男性だった。それから入院したことも聞いて、私はNが学校に行っている時間にゲーチスさんを訪れるようになったのだ。食事は取っているか、睡眠は取っているか。確認の為に訪れていた。ある種の監視でもあったとも言える。しかし今では3年前に比べると顔色もだいぶ良くなったし、愛想笑いでも何でもよく笑うようになった。彼もあの子同様に『人間らしく』なったと思う。

「せっかくだ。昼食、食べていきなさい」
「私が作りますよ。たまには他人の手料理を食べるのもいいでしょ」
「貴女の作ったものは、よく食べていたと思いますがね」
「どうせ奥さんには適いませんよ」
「……」

苦笑を浮かべた彼に、目を伏せる。椅子から立ち上がり、キッチンに向かった。その途中で、1人の女性の写真が視界に映る。穏やかに微笑む女性は彼が求めてやまない人だ。

(本当、適わないよなあ)

無意識にため息が零れる。頭の奥で、「再婚など決してしない」と言い張った彼の言葉がリフレインした。



▽6.

「うわ」
「はい、『うわ』とか言うヤツ受験で不合格ー」
「失礼だよな、あんた。本当に失礼だよな」

露骨に表情を歪める少年に、私も負けじと表情を歪めた。結局長居をしてしまい、ゲーチスさんの家を出たのは午後3時過ぎだった。この時間だと、家に着く頃にはNが通っている高校は放課になっている。多少予感はしていたが、まさかこんな人物とすれ違うとは思ってなかった。

「ついでに僕は受験まだだから。第一1年だし」
「とーや君、だから背が小さいんだね」
「これから伸びるから。Nも追い越すからな」
「未だに身長伸びてるNを追い越したいならあと5年は成長期必要だね」
「まだ伸びてんの」
「ウソ」
「あんた本当に性格悪い」

爽やかな笑顔を浮かべたまま、「死ねよ」と言ってのける彼に「地獄に落ちろ」と返した。彼とはこんなやり取りが当たり前になっている。
このトウヤという少年は、Nが通う高校の後輩だ。Nとも仲が良いらしく、たまに家に遊びに来る。
もちろん私と仲が良いのか、と聞かれても、素直に「はい」と言えるような仲ではない。特に決定的な諍いがあったわけでもない。ただなんとなく、こういう関係がデフォルトになっていた。

「そういえばさ」
「なに、とーや」
「……この間、Nと手繋いで歩いてたよな、あんた」
「ああ、うん」
「甘やかしすぎ、なんじゃじゃない」
「……」
「Nの家の事情は聞いたから、なんとなく、わかるよ。けど、だからって、Nはこれから自立しなきゃいけない人間だ」
「――だからでしょ」
「は?」
「Nはそうやって、小さい頃当たり前にもらえるものをもらえずにここまで来た。それが『普通』なんだよ。なら、一番そばにいる私があげなきゃ、あの子は何も知らないまま」
「……」
「だから、普通に今を生きていくためには、何倍も苦労しなきゃならない。何倍も努力して、『普通』を知らなきゃならない。そのためなら、私はあの子が望むなら手を繋ぐし、いくらでも抱き締める、そばにいる。それの何が悪いの。あの子に尽くして、何が悪いの」

――無条件で無償の愛を与える、なんて、体の良いことは言えないけれど。
手を振り払ったりしないし、放り出したりもしない。見捨てないし、見限ったりしない。

「あんたさ」
「なに」
「Nのこと、本当に心底溺愛してるよね」
「ありがとう」
「褒めてないし。それにさ」
「?」
「……Nに対して異常なほど執着してるよな。何ていうか、自己投影? ていうのしてるみたい」
「――!」

自己投影?
言われて、体の奥がギシギシと軋んだ。頭の中がぐらぐらと揺れる。

『だから子供なんかいらないって言ったのよ!』

――ああ、嫌なことを思い出した。
言ったのは誰だったか。一番近くにいた人間から言われた気がする。それがたまらなく悲しかったことも覚えてる。落ち込んで、落ち込んで、あの時。

『生まれてくる子が、貴女のように優しくなればいい』

だから、言ってくれた赤い瞳が、たまらなく好きだった。

「まあ、そうかもしれない」
「否定しないのかよ」
「初恋だったなあ」
「は?」
「まあその瞬間に玉砕したけど、私可哀想」
「意味わかんないんだけど」

眉をひそめるトウヤの頭をガシガシと撫でた。露骨に嫌そうな顔をされ、手は振り払われる。それに苦笑を零した。そしてちょうど分かれ道が見えたところで帰路を辿っていたことを思い出す。

「あんたって本当、歪んでるよな」
「トウヤも人のこと言えないくせに。……じゃあ私こっちだから」
「うん、じゃあ」

手を振り去っていく背中に目を伏せる。何気なしに見た時計は、4時を回っていた。早く帰らないと、彼が帰ってきてしまう。私は先を急いだ。







20110330




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