救ってくれたよ。
君が救ってくれたんだ。





▽0.

『いらないってさ』

私の言葉に、灰青色の瞳が大きく見開く。青白いほどに白い肌の上で淡い影が揺れた。くすんだ緑の髪が、その表情を隠す。私はあくまで雇われたような人間だから、彼が受けたショックなど想像する気にもなれなかった。でも、ひどく残酷な言葉だったことだけは理解できる。ただでさえ傷にまみれた脆弱な少年の精神を、容赦なく殴りつける事実だった。
砂利を踏む乾いた音が鼓膜を突く。彼は、乾いた唇を開閉させるだけだった。そこから言葉を発せることもできず、青い瞳は水の膜に覆われる。

『もう帰ってこなくていいってさ。あの家に、君の居場所はもうないって』
『ボク……』
『君、今日から私と暮らすことになったから。これ、君の着替え。おばあさんが勝手にまとめてくれたらしいよ』

私は手に持っていた荷物を足元に落とす。彼はそれを目で追い、唇を閉ざした。血の気が引いたその表情に、私は追い討ちをかけるように言葉を紡ぐ。

『いらないんだね』

――私と彼の始まりは残酷だ。放り出された可哀想な少年と、良いようにあてがわれた使い捨ての駒のような私。見放されて、放り出された空っぽの人間だった



▽1.

「ただいま」

玄関が開くと共に、明るい声音が響いた。それに夕飯を用意していた手を一度止める。小走りで廊下を走る音が響き、居間へ淡い緑色が入ってきた。入ってきた彼は持っていたカバンを放り投げて私がいるキッチンまでやって来る。その手には1枚のプリントが握られていた。彼は少しだけ得意気に「模試の結果」と言って私に差し出した。

「もう結果でたの?」
「頑張ったでしょ」
「数学と物理は相変わらずすごいね。うわ、1位だ……」
「得意だからね」
「でも国語酷すぎるでしょ、もうちょっと頑張らないと」
「……だって」
「だってじゃない」
「現代文とかよくわからないよ。それにほら、志望大学は一応A判定!」

嬉しそうに紙面を指差す彼に小さく吐息を吐く。確かに理系の大学なので判定は良いが、これでは定期テストやそれによって決まる評定に支障が出るだろう。ひとまず緑色のふかふかした髪を撫でて、模試の結果を返す。彼ははにかむように笑って、もう一度紙面に目を落とした。

「早く着替えて、もう少ししたら夕飯にするから」
「ボクも手伝うよ」
「今日は模試の結果がまあ良かったから手伝いは免除。座って待ってていいよ」
「じゃあ着替えてくる!」

居間に放り出されたカバンを抱え、彼は自室へとバタバタと向かっていった。その後ろ姿につい笑みが零れる。止めていた手を再開させ、彼が再び居間にやって来る音に耳を傾けた。



▽2.

Nと出会ってから、春を迎えたのは3度目だった。
3年前、中学生だった彼の面倒を見るようにと、大学生だった私は告げられた。私にそう告げたのは彼の父方の両親である。私は彼の母方の親族なので、全くの他人から理不尽を言われたも同然だった。しかし私自身、3年前にNを引き取る以前に何度か顔を会わせたことはある。もちろん言葉を交わすほど親しい仲ではなかった。

私がNと初めて会ったのは彼の母親の葬儀の日だ。黒に呑まれた無色の世界で、自身の母親の死を理解できない少年が彼だった。白い柩の前では彼の父が悲嘆し、彼の父方の親族は自業自得だと言わんばかりに口を閉ざしていた。
彼の父は若かった。記憶に間違いがなければ、Nはあの人が19歳の時の子供だったか。ただ、母親は3つ上だったらしい。若い彼らに親など務まるかと、父方の親族はひどく反対したそうだ。それに彼の父親自身、親とは確執にも似たものがあった。また、大きな企業の統率社でもあったのが拍車をかけたのだろう。結婚を反対された理由には、あの人が時期社長という立場にあったからでもあるのだ。
それもあり、Nの両親は半駆け落ち状態だったらしい。

だが、Nの母親は、何の前触れもなく事故で亡くなった。私は当時のことはあまり覚えていないが、葬列の中で、彼女の死を嘲笑っていた人間がいたことは知っている。また、彼の父親が嘆いていたことも知っている。

彼ら親子は、それがきっかけで父方の両親のもとへ戻ることになったそうだ。
しかし若くして伴侶を喪った父親の苦しみというのを、親族は一時的なものと履き違えていたのだろう。現を抜かす色恋から離れたなら、会社に戻って仕事にとりかかるとでも勘違いしたのだろう。確かにあの人は仕事に打ち込んでいた。同時に、あの人は日に日に衰弱していったのだ。かろうじて残る理性で子供の面倒を見ていたのも、月日が流れるのと比例して親子の時間は減っていった。Nが中学に上がる頃には、まともな会話もなかったらしい。その間、Nは境遇のせいで一部の同級生からからかわれ、酷い仕打ちをうけたと聞いた。

それからNが中学3年の時に、父親の放置や同級生からの虐めが学校に露呈された。大企業に携わる一族にあってはならないことだと、親族は慌てた。そしてちょうど良い当て馬に、全く他人の私が選ばれた。

父親から離す為に。
自分たちの手を煩わせない為に。
学校から問題視されることを避ける為に。
都合が良かったのだろう。
私は幸い1人暮らしだった。
それに相手にとってはどうでもいい人間だ。
万が一『間違い』があっても、社会的に自立している私に全て責任を押し付けてしまえばいい。


私も、Nも、彼らにとっては面倒事を一掃するだけの、道具に過ぎない。
Nを目の前から排除できればそれで良かったのだろう。

Nを引き取る時の条件も、私に都合の良いようにできていた。Nが高校卒業するまで仕送りをしてくれる。その間、父親には会わせるな。ただ家に置いてくれればいい。場合によっては私の分のお金も出してくれる。
私はただ、他人が出したその条件に釣られて彼を引き取ったのだ。打算的な人間だったと、我ながら呆れる。しかし多少の同情があったことも、確かだった。



▽3.

今日の夕飯は唐揚げだった。昨日の夜に、Nがそんなことを言っていたのを聞いて、それを受けてスーパーで買ってきたのだ。彼は目の前に並んでいる皿を見ては、目を瞬かせる。

「すごい偶然。ちょうど食べたかったんだ」
「昨日テレビ見ながら言ってたもんね」
「聞こえたの?」
「ちゃんと聞こえてたの」
「!」

瞳を丸くさせた彼が、嬉しそうに箸で挟んだ唐揚げを口に運ぶ。
その表情は、3年前では想像もつかないものだった。
当時の彼は、ひどく顔色が悪くて、表情らしい表情も顔に浮かべない少年だった。私は彼がどんな生活を送ってきたのかは話でしか聞いていない。しかしあの時よりも、確かに『人間らしく』なったと思う。

両親から見放され、親族からは放り出され、どうしようもない孤独の中で、ここは少なくとも彼の家になった。帰ってくる場所になった。
『普通』の人が自然と手にできる『普通』というモノを、彼は死に物狂いの努力をしなければ得られない。そういう環境で生きてきたのだ。
今でこそ笑えるようになった。しかしそれまでは、言葉すらまともに発しようとしなかったのだ。
そう考えれば、彼に訪れている変化は悪いものではないのだろう。

「あっ」
「なに?」
「そういえばね、文化祭、あるんだ。来月」
「ああ、もうそんな季節か」
「うん」
「それで」
「あ、えっと、それ、だけ」
「……」

来てほしい、とは彼は言わなかった。それは彼の私に対する遠慮なのだろうか。それとも、それを父親に伝えて欲しいという小さな願いなのだろうか。俯いた青い瞳が、寂しげに揺れる。何故か罪悪感が発露した。それを振り切るように、テレビに視線を向ける。
……もう6月になるのか。

「そろそろ衣替えだね、夏服、出しておくから」
「うん。――……あ、ねえ」
「なに?」
「今日、一緒に寝ていい?」
「なに、学校で悲しいことでもあったの?」
「そうじゃ、ない、けど」
「まあ、いいよ。お風呂、沸いてるからね」
「!」

――子供ではないのだから。私も些か彼に甘い気がする。でも、それは、3年前の私に比べたら少しはましになったと思いたい。彼を迎えに行ったとき、私が発した言葉は残酷なだけだった。傷だらけの彼の心をさらに抉って、未練どころか望みすら断ち切った。
私は、冷たい人間だった。
でも、私自身も少しずつ変わってきているなら。昔は私だってまともに彼と向き合うこと自体少なかった。長い時間をかけて、2人で積み重ねてきたからこそ、今がある。
……どろどろに甘やかしたくなるほど、Nが大切なことも事実だ。

――それに、私は。


「お風呂入ってくるね」
「ああ、うん」

夕飯の後片付けを終わらせたあと、テレビをぼんやりと眺めていた彼が立ち上がる。居間のテーブルの上には、シャーペンと開いたままのノート、附箋がたくさん貼られた教科書が放り出されていた。宿題なのだろう。アルファベットが並んでいるのを見て、英語だと理解する。そういえば、今回の模試では英語が少し上がっていた。明日は何か好きな食べ物で夕飯を作ってあげよう。

そんなことを思っているうちに、お風呂場からシャワーの水音が聞こえてきた。それを合図に、私は携帯を開く。そしてNの前では極力控えるようにと言われている人物の番号を打ち込んだ。呼び出し音が4回ほど響いた後に、受話器の向こう側から声が響いた。

『……こんばんは』
「こんばんは。ずいぶん声が掠れてますね、風邪ですか?」
『大したことはありません』
「食事と睡眠、ちゃんと取ってます? 最近様子見に行けてないので。ああ、明日は行きますから」
『心配いりませんよ』
「そうですか。それと、来月Nの高校で文化祭があるそうですよ」

私がそう告げると、受話器の向こうの人物は深く息を吐き出した。それが苛立ちによるものなのか、悲嘆によるものなのかはわからない。私は返答を待った。

『……父親の資格もない私に、来いと?』
「変なとこでネガティブですよね、あなたたち親子って」
『貴女が行ってやればいい。去年も一昨年も、どうせ行ってやらなかったのでしょう』
「そこまで面倒見ろとは言われてませんからね。まあ、今年は貴方の返答次第で行こうと思ってますよ――ゲーチスさん」

息子の面倒を見ながら、父親の様子見もする。
捨てられたのも、放り出されたのも、見放されたのも、何もNだけではない。彼もまたそうだ。挙げ句唯一の子供すら取り上げられてしまったのだから、可哀想な人間なのだろう。それでも彼も1人にしたら『ダメ』になってしまうのは明確だった。3年前、Nを迎えに行った日に見たゲーチスさんもまたひどく窶れていた。大人としての社会的責任は果たせても、『ひと』としての生き方ができてない。聞いた話では私がNを引き取った3日後に栄養失調で入院したのだそうだ。

そんな彼ら親子とここまで関わる人間も、私以外にあまりいないのだから、親族も無責任な人間ばかりだ。
私もつくづく物好きな人間なのだろう。






20110330




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