手に生々しい感覚が残っていた。体温、皮膚、血の流動、骨、肉。あのままもっと力を込めたら、あの人は今頃冷たくなってしまっただろうか。生物は身体に酸素が回らなくなったら死ぬという。でもあの人は驚いていたが、苦しんではいなかった。いや、確かに僅かに表情を歪めていたが、そこに恐怖も生への執着もなかったのだ。笑っていた。あの人は死にたいのだろうか。
ぼんやりと手のひらを眺め、ソファーの上で寝返りを打った。
試しに両手を首にあてがい、力を入れてみる。ひどく苦しい。こんなのではどうしたって笑えない。わからない。わからない。

「わからないや……」

呟くと、傍らにいたグラエナの耳がピクリと動いた。「どうしたのですか」と、文字が直接頭に流れ込む。意味を理解すると霧散する言葉は、彼女同様に丁寧な口調だった。……長い間彼女のそばにいると言っていた。ならばグラエナの口調も彼女に影響されたものなのだろうか。何でもないと返すと彼は尻尾を左右に振った。

今日は日曜日で、彼女は仕事が休みだった。しかし買い物に出ていて、今は家にいない。荷物持ちについていくと言ったのだが、彼女に迷子になるからと、如何にも子供扱いを前提にした理由で断られた。
することもなく、ただ彼女の帰りを待つ。意味もなく城を出てくる間際の記憶を再生しては、浮かんでは忘れる疑問に首を傾げた。

「N君、退屈ですか?」
「!」

すると不意に意志を伝えてくるグラエナに我に返る。同時に時計が十一時ぴったりになり、オルゴールのメロディーが鳴りだした。優しげな、子守唄のような曲調だ。最近ではすっかり記憶に染み付いたそれは、実はとても好きだったりする。六十分置きに訪れる、時計の長針が十二を指す瞬間は小さな楽しみだった。
ゆっくりとソファーから体を起こして彼を見る。赤い瞳は瞬いた。それに少しだけ間をおいた後に、苦笑しながら答える。

「……少しだけ退屈かな」

彼女が買い物に出てからもう一時間が経つ。そんなに遠くまで行っているのだろうか。無理を言ってでも付いていけば良かった。ジワジワと胸中に肥大する暗い感情に目を閉じる。
……寂れた空間は嫌いだ。
ここはあの城と違う。待っていれば帰ってきてくれる人がいる。一人だけど独りじゃない。今は、彼女がいてくれる。一人じゃない。独りじゃない。ひとりじゃない。

「N君?」
「……本当はね、少しだけ寂しいんだ」
「……」
「イスズは今までひとりだったのに、寂しくないのかな」
「……」
「ねえ、グラエナ。前に彼女は寂しがりやだって、君は言ったよね。でもどうして平然としているのだろう」
「それは」
「僕は彼女のことを君から聞いているのに、どうしてかな、僕は彼女が全然わからない」
「……」
「これじゃあ知らないのと、一緒だ……」

グラエナが耳を垂れた。その様子に、少しだけ申し訳ない気分になる。
――彼女は。僕が、知っている彼女は。
水色のマグカップがお気に入りで、ココアが好きで、クッションが好きで、グラエナが大好きで、早起きで、家事ができて、ソファーで寝るのが癖で、たまに意地悪で。朝が嫌いで、仕事があまり好きそうではなくて、たまにひとりで泣いていて、僕はそれが嫌で。
でもそれしか知らない。

「N君」
「……」
「じゃあ、N君にイスズの秘密、ひとつだけ教えてあげます」
「!」

――秘密?

「誰にも言ってはダメなのです。これは本当は僕とイスズだけの秘密だけでした。でも、N君は彼女と仲が良いから」
「……」
「だけどイスズに言ってもダメです。彼女は今ここでやっと落ち着きました。また昔みたいなことになったら、本当に壊れてしまうんです」
「どういうこと」

赤い瞳が瞬きを繰り返す。そして僅かに悲しげに目を伏せて、静かに言葉を紡いだ。


「イスズは、本当はイスズ≠カゃないんです」
「え――?」


何を言っているのか、意味が分からなかった。

「だからイスズはイスズ≠ノならないといけないんです」
「どういう、ことなの」
「……」
「彼女は」

誰なの?

刹那、電子音がけたたましく鳴り響いた。ビクリと心臓が跳ね上がる。電話だ。リビングの入り口にある固定電話が鳴っている。

「あ……」

誰からだろう。出た方がいいのだろうか。彼女に対するものであることは確かだ。もし急用だったら、伝言を受けて伝えることもできる。ほんの少し躊躇った後に、電話の子機に手を伸ばした。耳にあてがう。

『良かった。やっと連絡がついた。心配したんだよ』
「……!」

……男の、人?
受話器を取るなり、低く落ち着いた、柔らかい声が鼓膜を揺すった。そういえば彼女は一人暮らしなのだ。相手は彼女以外の人間が出るなど、思ってないのだろう。しかしだとしたらこの人は誰なのだろう。心臓が大きく跳ね上がる。ドクドクと重く波打つ鼓動に、息が苦しくなった。

『ご飯はちゃんと食べてる? 毎日ちゃんと休養は取ってる? グラエナは元気かい?』

やはり相手は僕を彼女だと思っているようだ。受話器越しに、ひたすら他愛のない問が零れてくる。僕は今さら何も言えずに、ただ口を噤んだ。

『それに、聞いたよ。仕事、ここ二週間は休んでいるって』
「……!」

――仕事を、休んでいる?
仕事?
休んでる?
誰が?
言葉の意味を、上手く咀嚼できなかった。一体何を言っているのか。そんなわけはない。それは今自分が知っている事実とはまるで異なる。
嘘だ。嘘だよ。
ここ二週間、彼女は仕事だった。仕事だから、ずっと会えなかったのだ。そんなわけはない。

『具合が悪いのかい? 医者にはちゃんと行った? 今は、大丈夫かい?』

おかしい。変だ。こんなの嘘だ。それに誰なの。この男の人は誰。
頭の中で問がグルグルと螺旋する。不快感がこみ上げてきて、気持ち悪い。息が苦しい。わからない。わからない。

『……辛いなら、ホウエンに帰ってきていいんだよ』

――イスズ

「……ッ!」

その声が彼女の名前を呼ぶと同時に、乱暴に子機を置いた。ガチャリと音を立てて、電話は切れる。グラエナがビクリと体を震わせた。
イスズ、イスズ、イスズ。
ずっと、その名前を呼んでいたのは自分だけだと思ってた。そんなわけはないのに。なのに、電話口の男性が彼女の名前を口にした途端、得体の知れない嫌悪感が全身に走った。彼女の姿が頭の中で遠退く。彼女が離れていく。置いていかれてしまう。彼女が知らない他人に思えた。違う。こんなの僕の知っている彼女じゃない。

イスズは、本当はイスズじゃないんです

誰。誰。誰。誰なの。あの男は誰。彼女は誰。誰。わからない。僕は。

足下がぐらつく。ガラガラと崩れていく。真っ暗だ。彼女は、彼女はまだ帰ってこない。イスズは、でもイスズじゃない。彼女はどこ。
気持ち悪い。頭が痛い。嘘だ。嘘吐き。苦しい。気持ち悪い。痛い。帰ってこない。彼女は。


「N君? どうしたんですか」
「!」

不意に響いた声に、ゆっくりそちらに視線を向けた。ビニール袋を持った彼女がいる。帰ってきたのだ。

「うわ、顔色が真っ青ですよ」
「あ……」
「お昼寝でもして、怖い夢見ましたか?」
「……」
「今からご飯作りますから。食べて忘れてしまいましょう」

彼女は笑う。伸ばされた指先が、そっと目元にかかった髪を払った。キッチンへと向かうその背中をただ見詰める。その背中を追い、名前を呼んだ。彼女のうなじに額を寄せる。

「イスズ」
「はい?」
「どこにも、行かないよね?」
「?」
「僕のこと、置いていかないよね?」
「N君?」
「置いて、いかないでね」

額に伝わる彼女の熱は、冷えていた。僅かに意識がぶれる。
僕が知らない彼女がいる。
その事実だけが、怖かった。




20101024
修正20110102
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