「出かけるの?」

朝食の後片付けをしていた私に、彼は何の前触れもなく零すように問いかけた。いつの間にか斜め後ろにあったシャドーブルーの瞳が、遠慮がちに伏せられている。あまりに唐突で、何故そのような問いを口にしたのか意味がわからなかった。だが、ひとまず出かける予定はないと返した。それに彼は少しだけ戸惑ったような顔をする。

「どこか行きたいところでもありましたか?」
「あ……いや、別に」

その仕草に思わず私が首を傾げると、彼はいっそう焦りを面に出した。そして必死に何か返す言葉を探しているのか、口を開こうとしては中途半端に音を零して口を噤む。
……その様子がなんだか可笑しくて、私は笑いを堪えながらわざと答えを催促した。

「私が家にいたら悪いことでもあるんですか?」
「違うよ。そんなんじゃないよ」
「じゃあどうして?」
「ただ、休みなら、一緒に……」

僅かに躊躇うように、彼は私から視線をそらす。

「……観覧車」
「え?」
「好きかい?」
「あ、ええ、はい」

高い場所は苦手ではない。それに観覧車と言えば、幼いころ、もう帰る時間だと言う両親に対し、駄々をこねて乗せてもらった記憶がある。……現在両親が離婚してしまった私にとっては、綺麗な思い出として唯一残っている記憶だ。
高いところから見た夕陽や、赤い光に優しく照らされた両親の暖かさが鮮明に蘇る。ゴンドラが揺れるたびに笑い声を上げて父や母にしがみついた。
――ああ、懐かしいな。
今ではその幸せなど、面影も残していない。
最後に見た2人の姿は、ひどく他人行儀だった。共に過ごしたはずの20年以上の時間が、まるで砂の城のように崩れていく。男と女など、その程度のものなのか。

両親の離婚は辛かった。彼らは私が幼少のころから喧嘩や罵声の浴びせ合いをしていた。それももちろん辛かったが、本人たちの意志で他人に戻ってしまうことが何よりも寂しかった。私にとっては双方が紛れもなく私の親であり、私が彼らの子供であることは変えようがなかったからだ。
2人が他人に戻っても、私は彼らと他人にはなれない。

置いていかれたような、1人暗闇に放り出されたような感覚が、恐かった。

「イスズ?」
「あ、ごめんなさい。ちょっといろいろ思い出しちゃって……」
「……」
「えっと、それで?」
「! うん。僕も、観覧車好きなんだ。だから、君と一緒に乗りたくて……」
「!」

はにかんだように、慎重に言葉を選ぶような様子の彼に、微笑ましくなってしまう。ソファーに腰を下ろした彼は、俯きながら言葉を紡ぐ。
それに向かい側に腰を下ろせば、グラエナが尻尾をパタパタと左右に振った。……両親のことを思考から必死に払拭するように、一度頭を振る。

「一緒に、観覧車乗ってくれるかい?」
「……喜んで」
「ほんとう?」
「観覧車、懐かしいですから楽しみです。早速準備しないと。確か……ライモンシティですよね、観覧車って」
「う、うん」

笑いながら頷く彼に、釣られて笑った。

――今はもう私だって大人なのだ。いつまで経っても、縋っているわけにはいかない。





その日の午後は快晴で、出かけるには良い日和だった。遊園地までは少し遠い気もしたが、せっかくだしいい気分転換になるだろう。
結局着いたのは夕方になってしまったが、お目当ての観覧車に乗ることはできた。乗っている間、彼も昔一度だけ父と母に連れてきてもらったことがあると言った。

「家族で乗ったんですね、楽しかったですか?」
「ううん」
「え?」
「父さんとも母さんとも乗ってないよ」
「それじゃあ、誰、と」
「……昔ね、僕のお母さん≠ノなってくれるって言ってくれた女の子がいたんだ。親戚の子だったのかな。そこはよく覚えてないのだけど……その子と乗ったんだよ」
「……!」

夕陽に照らされた彼の瞳が大きく揺れた。私は、彼の言っている意味を理解するのに間があった。しかし意味を理解した途端、心臓が熱を持つ。足元がぐらついた。
彼は俯瞰の風景を見下ろしながら目を細める。

「母さんはいないし、父さんはもう父さんであることをやめてしまったから。だから」
「その子が、お母さん≠ノ?」
「イスズはね、少し彼女に似てる気がするんだ」
「!」

彼は風景から私とへ視線を映す。ゴンドラが僅かに揺れた。

「でも彼女もいなくなってしまった……僕は、悪い子だったのかな」
「N君」
「ねえ、イスズ。子供が親に置いていかれるのはどうして? 僕は悪い子なのかな。僕はダメな子なのかな。だから置いて行かれるのかい? いい子にしてたら迎えに来てくれるかな?」

彼は目を細めた。泣き出しそうな危うさを孕み、微笑む。

「イスズなら、迎えにきてくれるかい?」

赤い夕陽が空間を満たす。
私なら、迎えに行くだろう。
――いや、違う。
むしろ私は迎えを待っている側の人間だ。
置き去りにされることを厭うくせに、自分からそれを追おうとはしない。追っても既に手遅れだと、諦めている。

――遠いあの日。私が両親と観覧車に乗ったあの日。
お母さんは悲しげに俯瞰の風景を見ていた。
お父さんは辛そうに足元を見ていた。
私は何も知らずに笑っている。
今になって思い出すことがある。忘れてしまいたかったことがある。
ああ、そうか。
もう、終わっていたのかもしれない。

観覧車から見た夕陽は、何故か泣きたくなるほど悲しかった。







20101017
修正20110102
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