目を閉じると懐かしい匂いがした。既視感にも似た奇妙な感覚は、静かに意識を微睡みに誘う。
体を丸め、きつく自身の体を抱きしめ、僕は意識を暗闇に落とした。

彼女はいつになったら帰ってくるだろう。寂しいと、言ったなら早く帰ってきてくれるだろうか。






夢だと自覚しながら見る夢を、明晰夢というのだそうだ。

後頭部に感じる冷たく固い感触に目を覚ました。開けた視界には、見慣れた天井の色が広がっている。しかしそれに反し、体は慣れない感覚に浸っていた。
カーテンの隙間からは一縷の細く長い光が差し込み、視界を縦に裂いている。寝返りを打とうとすれば、不意にうなじや背骨に冷たい痛みが走った。
起き上がろうとして手のひらに触れたフローリングの冷たさに、一気に意識が覚醒する。そこでやっと自分がリビングのソファーで寝ていたことを思い出した。同時に寝相が悪く床に落ちたことも認識し、ため息が零れた。

のろのろと緩慢な動作で立ち上がる。それにあわせて、輪郭を取り戻し始めた思考に、昨日の記憶の断片が蘇った。
――もう7時になる。彼のことも起こさなければ。
欠伸を噛み殺しながら床やソファーに無造作に置かれた毛布を掴みあげる。手のひらに伝わる柔らかさに、ふと何かを思い出しそうな、そんなもどかしい衝動に駆られた。夢の余韻だろうか。小さく首を傾げては、その感覚を無理やり意識の底へと押し込めた。

毛布を適当に畳んで腕に抱える。すると気配に気付いたのか、私の唯一の手持ちであるグラエナがどこからか現れて足元にすり寄ってきた。

「おはようございます、グラエナ」

尻尾が嬉しそうに左右に振られている。その柔らかな毛並みを撫でると、彼は嬉しそうに喉を鳴らした。そして私はグラエナに促されるように、自分の部屋に向かう。

特に声をかけるわけでもなく部屋のドアを開けた。
自分以外の人間を受け入れた空間は、いつもと違う匂いがした。馴染んだ空間が、慣れない柔らかい匂いに満たされている。それが何だかくすぐったい。
ベッドに視線を向けると、被り布団から淡い緑色が零れている。淡く差し込む朝陽に、それがきらきらと透けていた。

「朝ですよ」

声をかけながらゆっくりと近付く。そっと体を揺すると、小さな声が鼓膜を突いた。寝起きで上手く声帯が機能しないのだろう。普段より幾分低いかすれた声は、ひどく聞き取りにくく単語を発している。それに苦笑しながら、私は言葉を紡ぐ。

「よく眠れたみたいですね?」
「……?」
「朝ですよ。ほら、起きなさい」

ぼんやりと焦点の合わない瞳が私を映す。それに強引に彼の体から布団を剥がした。唐突過ぎて驚いたのか、彼は瞳を見開いた。外見よりもずっと幼いその表情に、思わず笑ってしまう。慌てて上体を起こした彼は、まだ少しだけ眠そうに目をこすっていた。

「あ……れ?」
「寝癖すごいですよ」
「お帰りなさい」
「ただいま」
「いつ帰ったの?」
「1時頃、ですかね。私が帰ってきた時はベッドで熟睡してましたね」
「ここは落ち着くんだ。柔らかいし、あったかいし」
「おかげで私、ソファーで寝て床に落ちて変な夢まで見たんですから」

わざとらしくため息をついてみせると、彼はおかしそうに「どんな夢が教えてよ」と笑った。そしてベッドから降りて、私の傍らにいたグラエナの頭を撫でる。グラエナが再び嬉しそうに喉を鳴らした。

「……仕事、だろ? 時間は大丈夫?」
「今日は休みです」
「!」

言うなり彼は目を丸くする。もう一度それを言うと、彼は目を輝かせた。幼い子供を思わせるような無邪気な表情だった。そして寝癖で跳ねたままの髪を揺らしながら、彼は部屋を出ていく。その後ろ姿を眺めながら、思わず表情を綻ばせた。

私が彼と出会ったのは、2ヶ月ほど前の話だ。
仕事帰りの夜道で、所在なさげな表情を浮かべながら橋の縁に立っている彼を見つけたのがきっかけだった。とはいっても、それに最初に気付いたのは私のグラエナだ。いつも留守番を任せているこの子は、私が仕事を終える時間に合わせて迎えに来てくれるのだ。
ただ、人見知りで臆病な性格であったこの子が、自ら人間に関わろうと動いたのは、初めてだった。何よりも私以外に懐くことが珍しかった。だからだろう。ほんの小さな好奇心で声をかけた。彼は私の声にひどく驚きながら、私とグラエナを交互に見た。そしてグラエナを見ながら、今にも消えてしまいそうな声で囁いたのだ。

「ああ、やっと会えたね」

どういう、意味なのだろう。第一印象は不審が勝ってあまり良いものではなかったと思う。

だがグラエナはまるで彼に甘えるようにすり寄った。私にとってみれば衝撃的な光景そのものだった。
だがその時の時刻は真夜中の零時近くだ。未成年が彷徨くような時間帯ではない。一瞬警察という選択肢が頭をよぎったが、グラエナの様子にそれはすぐに却下した。ひとまず放っておくわけにもいかず、彼を自宅に招くことにした。

家に着いてからは、幾つか質問を投げかけたが何を問うても彼は何も語ろうとしない。厄介事を持って帰ってきてしまったかな、と小さな後悔が発露する。
それに質問のせいか警戒心も抱かせてしまったようだった。怯えたような様子すら見せるので、さすがに困惑してしまった。無理に問いただすのにも罪悪感を感じ、張り詰めた空気を誤魔化すように夜食を勧めた。彼の警戒心は、僅かながらそれで解けたのだろう。

以来何が気に入ったのかは知らないが、彼はここを三日に一度という高い頻度で訪れている。昼間は仕事に行っている私に合わせて、よく夕方や夜に訪れた。しかし夕飯を食べたらここから去っていくのだし、家には帰っているようだ。私の家に泊まることも稀だったので、それほど彼がここに来ることに神経質になる必要もないのだろうか。

最近では私もそれにすっかり馴染んでしまって、彼が来ることを見越して玄関の鍵は敢えて開けておくようにした。それからは帰ったときに彼が迎えてくれるという光景に馴染みつつある。たまに昨日のように私の帰りが遅いときは、何故か勝手に私の部屋に入り込んで寝ているということもあった。

本名も素性も知れない人間に対してここまで許してしまうなんて、私も些か不用心なのかもしれない。

そんなことを考えていたら、ドアの向こうから私を呼ぶ声が聞こえた。
……先ほど口には出していなかったが、私が着替えると思って気を使ったのだろう。そんなことを思っては、出て行った背中に、つい苦笑してしまった。

「イスズ、まだ終わらないのかい?」

手早く着替えを済ませて、リビングに戻った。





「寝癖」
「え?」
「ほら、後ろの方。ちゃんと直さないと、そんな頭で外に出たら笑われますよ」

リビングに着くなり、部屋から出て行ったとき同様に、跳ねた髪を揺らしながら彼はこちらに視線を向けた。ただでさえ柔らかい髪は、寝癖のせいでずいぶん酷いことになっている。笑いながらからかうようにそれを言うと、彼はなんとも言えない表情で部屋を出て行った。鏡で確認するために洗面所にでも行ったのだろう。
しかしあまり間を置かずに戻ってきた彼の手には、櫛が握られていた。

「女の子は、こういうの得意なんでしょ」
「はいはい」

眉を下げ、如何にも所在なさそうな顔をして彼は言った。その表情に思わず笑ってしまった。
彼から櫛を受け取り、椅子に座るよう促す。
その背後に移動し櫛を通せば、長い髪は流れるように揺れた。
彼の寝癖を直してやって、ようやく朝食の準備に取りかかる。そうして席について食べ始めれば、窓から差す陽に彼の髪が銀色にきらきら光った。


久しぶりの休日は、不思議な青年と共に始まった。






20101015
修正20110102
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -