ホウエンに戻る日は、私が退院して2週間後に決まった。
せっかく再就職できた職場で、いきなり入院のために出勤できません、なんて、また失業してしまうに違いない。しかし今更そんな恐怖は沸かなかった。確かに履歴書に傷は付くが、いつまでもそんなことを気にしていられない。また、1から始める以外方法がないのなら、始めればいいだけのことだ。
ちなみに私が入院している間、N君は毎日のように私のもとへ通った。グラエナやマメパトは、何でもダイゴが面倒を見てくれているらしい。詰まらない話、ありきたりな話、とにかく彼は、暗い表情を見せまいと振る舞っていた。一体どんな気持ちで、私の前に現れるのだろう。
ゲーチスさんは、あの日以来私を訪れることはなかった。N君に聞いても、「あの人は忙しいから」という言葉以外返ってはこない。
のろのろと尾を引きながら時間は過ぎていった。退院までの時間もあっという間に過ぎ、私は程なくして自宅に帰宅した。


「懐かしいね」
「そうですか。とりあえず掃除しなければなりませんね」
「……」
「ああ、そうそう。N君にこれをと思って」
「!」

玄関で靴を脱ぎながら、ポケットから鍵を取り出す。手のひらに伝わる金属の冷たさを感じながら、それを彼に差し出した。

「鍵?」
「ええ、この家の合い鍵」
「どうして」
「私が向こうに行っている間、気が向いたら使ってください。それに待つ場所、あった方がいいでしょ?」
「イスズ……」

廊下を進みリビングに向かう。リビングに着くなり、手に持った荷物をソファーに下ろした。彼は手のひらの中の鍵と私を交互に見る。一瞬だけ不安に揺れた瞳が、ゆっくりと私に近付いてきた。そしておもむろに腕が伸ばされる。こんな時、彼の方が背が高いだとか、男であることだとか、詰まらないことを思い出す。昔抱き締めた小さく柔らかな体はどこにもない。彼の背中に手を回し、その体温を抱き締めた。

「本当に、大きくなりましたね」
「なに、それ」
「いえ、なんでも」
「ね、イスズ」
「はい」

斜め上から聞こえる声に、耳を傾ける。いっそう強くなる彼の腕の力を感じ、手の甲を掠める緑色の髪にいたずらに指を絡ませた。

「前に、僕には夢があると言ったのを覚えているかい?」
「そういえば、言っていましたね」
「うん。だから、君が帰ってくるまでに、僕は夢を叶えるから」
「ええ? そんな急にできるんですか?」
「……できるよ。できるから。そしたら、今度は君が一緒にいてくれたら嬉しいな」
「……?」
「夢を叶えるから」
「……頑張ってくださいね」
「うん」

ゆっくりと彼が離れる。はにかむような表情を浮かべ、N君は「ハンバーグが食べたいな」と言った。






帰宅してからの2週間も、驚くほど呆気なく、あっという間に過ぎていった。仕事は、やはり内定が取り消しになってしまった。しかしホウエンに行って帰って来ることを思うと、仕方がない。何もせず、ひたすら同じことを繰り返すだけの毎日だった。
N君はやはり相変わらず私のもとへと来た。そして、私がここを立つ日には、何でも大切な用事があるらしい。見送りには行けないかもしれないからと、彼は繰り返し呟くように言っては憂いを帯びた瞳で笑った。そんなに気にすることでもないのに。不安げに言葉を紡ぐ彼に、私はただ「夢を叶えてください」としか言えなかった。
――思えば、私に夢なんてなかったから。
私には迂闊に言葉をかける権利はなかった。

「あの子、来ないのかい? ほら、緑色の髪の子」
「!」

空港でズルズルと荷物を引いていた私に、不意にダイゴが声をかけた。
グラエナとマメパトはモンスターボールの中にいる。ポケットにしまった2匹を思いながら、「来ないよ」と返した。

「そうなんだ」
「うん。大切な用事があるんだって。仕方ないよ」
「ならもっとよく話をしとけば良かったな。ここでの君の様子とか聞きたかった」
「余計なこと聞かないでよダイゴ。少なくともN君に会ったのだってほんの5ヶ月前なんだから」
「案外日が浅いんだね。人見知りな君にしては珍しい」
「……」

小さく笑った彼を、じとりと睨み付ける。同時にアナウンスが響き渡り、慌てて搭乗ゲートに向かった。耳朶を撫でるざわつく雑踏の音。ノイズ混じりの放送。
搭乗した後は、指定された席に座り、シートベルトを締める。機内で流れる定型文の注意を聞きながら、小さな窓から外を見た。すると隣に座るダイゴが、苦笑混じりに言葉を紡ぐ。

「すぐに帰るんだろ?」
「当たり前」
「じゃあ、早く覚悟を決めないとね」
「……」

機体が揺れ、耳に鈍い痛みが走る。重心が斜めに傾き、全身に圧力がかかった。小さな窓から見える景色はコンクリートから青空に変わる。地面がどんどん遠ざかっていく。
――同時に、視界に何か、白と緑が映った。

「――!?」

緑……?
窓に体を寄せる。シートベルトにより上手く動かせない体を捻り、目を凝らした。
白く大きな何かの上に、緑色の髪を揺らした人影がいる。風圧に靡く髪も、薄い肩も、青い瞳も知っている。

「N、君……」

風に飛ばされそうな帽子を押さえ、彼は泣きそうな顔で笑った。そしてポケットから何かを取り出し、私に向かって翳す。日の光に銀色に輝くそれは、私が渡した家の鍵だった。
たまらず瞼に熱が籠もる。隣にいるダイゴが、何かを言おうとして口を噤んだ。
聞こえないとわかっていても、窓を手のひらで叩く。目元を拭い、手を振った。

高度と速さを増す機体に、彼の姿は少しずつ後ろへと消えていく。それでもなお、必死に追いつこうとポケモンの背に乗った彼は空を切る。
――また帰って来るんだ。会えるんだ。
だけど。

「僕は、君を待ってて、いいの?」

どうしようもなく苦しくなる。寂しさが込み上げる。彼を置いていくと思うと、耐え難い後悔にも似た罪悪感が込み上げた。
ただひたすら待ち続ける彼を思うと、何故か不安でたまらなかった。

――きっと、すぐに帰ってくる。

言い聞かせるように念じる。後ろの景色に溶けていく彼の姿を、ただ見詰め続けた。

「……あの子、君が好きなんだね」
「!」
「良かった。やっぱり、こう言うと何だけど、君をイッシュに送り出して良かったと思う」
「……そう」
「うん。君も、昔よりずっと穏やかな顔をしてる」
「……!」
「やっと、自分自身を見つけられたんだね」



他の誰かに強制されたわけでもない。誰かの期待に応えるわけでもない。

ただ、代用などありはしない自分自身の在処を、そこに見つけた。







/end
20110303
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