僕の場所だった。
あの腕の中も、傍らも、向けられる穏やかな眸も。
それは僕のもののはずだった。
だけど僕以上に、彼女があの人と親子らしかったのを知っている。
抱き上げてもらって、あやしてもらって、本当の親子みたいに扱ってもらって。
――羨ましいな。
「だから僕は、お父さんが欲しいの」
「お母さんが欲しいの」

なら、私がお母さんになる

僕から父親を奪った彼女が、僕に母親を与えた。
その体温を受け取り、頭の中で世界をねじ曲げる。父親が大切なものの1つは母親だ。なら、彼女はお母さんだ。
彼が千切れそうなほど哀切と慈愛に満ちた目を向けていた写真の女性が、そうだったとしても。




「痛……」
「大丈夫?」

不意に立ち止まり、表情を歪めた彼女に反射的に手を伸ばした。倒れないようにと彼女の肩に手を添え、青白い貌を覗き込む。
……走ったせいだろう。彼女の唇が低い呻きを零す。腹部にあてがわれた手のひらを軸に体を折り曲げる彼女に、不安がどくりと波打った。
どうしたって、上手くできやしない。あの時逃げなければ彼女を走らせることにはならなかったし、体に負担をかけることもなかった。辛い思いを、させたいわけではないのに。自分が導いた結果が常に彼女に痛みを蓄積させている。後悔先に立たずとはこのことだ。
……彼女を支えたくて伸ばした手は黙殺され、彼女は点滴を支えに重心を元に戻す。
額にはうっすらと汗が浮かび上がっている。

「看護婦さんか、とにかく誰か呼んでくるよ」
「大丈夫です」
「でも、痛いだろ」
「病室まで後少しだから平気ですよ」
「イスズ、無理しないで」
「大丈夫ですってば」

困ったように笑う彼女に、無性にいたたまれなくなる。
今回のことだってそうだ。
イスズが今回吐血した理由は、胃潰瘍という病気だからだそうだ。その原因はストレスだと聞いた。なら、ストレスの原因は何だ。少なからず、僕の言葉も確実に彼女の精神を蝕んでいた。酷いことをした。酷いことを言った。彼女が何かに苦しんでいたことなら、あの書き損ないの遺書を見つけた日からわかっていたはずだ。追い打ちをかけたのだ。
伸ばした手を取ってもらえないのは、当たり前だ。

彼女は痛みに足を引きずるように歩を進める。点滴がカチャカチャと神経質に音を立てた。

「!」

しかしその音は唐突に止む。彼女が足を止めたのだ。ちょうど病室のすぐ近くまでやってきた時だった。
病室の前に誰か立っている。
青みのある銀色の髪と、海原を思わせる青い瞳が向けられた。……若い男性のようだ。イスズより幾分年上に見える。心なしか、顔立ちが少しだけ彼女に似ている気がした。

「ダイゴ……」
「!」

彼女の唇が音を紡ぐ。同時に青年がこちらを向いた。ただでさえ青白い彼女の顔色から、さらに血の気が引いていく。ダイゴと呼ばれた青年は、青い瞳を丸くしながら彼女の名前を呼んだ。
その声は、僕がかつて電話越しに聞いた声だった。

「イスズ、何というか、久しぶりだね」
「……」
「連絡をもらったんだ。出歩いて、大丈夫なのかい?」
「平気……大丈夫」
「そうか。ああ、そちらの人は?」

――強張った様子の彼女に、言いようのない不安が発露した。青年の視線が僕に向けられる。彼女の様子に気を取られてばかりだったせいで、一瞬何を言われているのかわからなかった。戸惑いながらも、間を置いて名前だけ告げる。彼は穏やかに目を細め、ツワブキダイゴという名前と、彼女の従兄であることを口にした。
廊下で少しだけ不自然な感じで挨拶をし、病室に戻る。ダイゴという人も彼女に話があるらしく、僕たちに続いて入ってきた。彼女は崩れ落ちるようにベッドに腰掛け、腹部を押さえて息を吐く。
そして宙を睨みながら、彼女は絞り出すように言葉を紡いだ。

「怒ってるでしょう」

僕ではなく、おそらくダイゴさんに向けられた言葉だ。彼は彼女の言葉に僅かに眉をひそめる。そして静かに言った。

「怒ってるよ。2年も連絡を寄越さない。連絡しても電話にもでない。挙げ句、君は今どうしてる? 無理に無理を重ねて、胃潰瘍だそうだね」
「……」
「僕や、君のご両親がどんなに心配したかわかってる? 困ったときはいつでも頼っていいと、いつも僕は君に言ってきたつもりだった。何かあったら無理せずに言ってほしかった。力になりたかった」
「そんなの……わからない」
「イスズ」
「……なに」
「ホウエンに帰ろう」
「――!」
「今回のことは、僕のせいだ。君のことをちゃんと気にかけて上げられなかった。でも、言ってくれれば仕事を君に紹介することくらいできたさ。仕事を探す手伝いだってした。体調が悪いなら、何だって力になったよ」
「――私はいつまで経っても子供じゃない!」
「!」

今まで聞いたことがないくらい、彼女は語気を荒げていた。大きく開いた目が充血し、水膜に覆われている。

「放っておけばいいでしょう? なんで構うの? なんで余計なことばかりするの!」
「余計な、こと……?」
「いつもそう! まるで何もできない子供みたいに、あれをやりなさい、これをやりなさい……ダイゴもお母さんもそんなのばかり!」
「君を心配してるんだ。イスズはいつも、1人で何でも抱え込んで無理するだろ。だから少しでも、君の負担を……」
「私をホウエンから追い出したくせに……!」
「!」
「邪魔なんでしょう。どうせ、もう面倒見切れないんでしょう。だから追い出したんだ」
「違う、あのまま君がホウエンにいたって、何も変わらないと思ったんだ。すぐに我慢する。いつも無理をする。知り合いにも、僕にも、これっぽっちも頼らない。だから、遠く離れた故郷で、新しく自分で1から始めてほしかった。新しく築いた人間関係でなら、君は……」
「嘘吐き! 本当は、本当は私のこと捨てたんだ!」
「違う、イスズ、僕は」
「私が私≠カゃないからもうお母さんは私なんかいらないの。私は出来損ないなんだ。忘れたかったんだ。私なんかいらない。いらない。死ねばいいのに……!」

ごめんなさい、今日も死ねませんでした

頭の奥深くで、彼女の遺書の文字が浮かんで消えた。同時に、反射的に彼女の首へと手を伸ばしていた。手のひらに温い体温と脈が伝わる。
――生きている。
脳裏に、いつも褪せた写真を見つめるゲーチスの姿がよぎった。途端に瞼や頭の奥が熱を持つ。声が震えた。

「そんなの……許さない」
「!」
「絶対ダメだ、絶対、ダメ。そんなこと、絶対許さない、から……」
「えぬ、く……」

――君はずっと、自分が捨てられたと思っていたの?
ぼろぼろと崩れるように、彼女は涙を零した。
あの家で彼女が帰ってくるのを待つ時、いつも不安だった。誰にも気付かれないように、ひっそりと、声を押し殺して泣く彼女の姿は珍しくなかったから。
声をかけることができなかった。彼女は泣いている事実すら隠そうとしていたのだ。「どうしたの?」「何かあったの?」なんて、どうしたって聞けなかった。ぽんぽん、と背中を叩く。引きつったような呼吸を繰り返して、それは嗚咽に変わった。

「……出直してくるよ」
「!」

ダイゴさんがどこか寂しげに口にした。

「だけど忘れないで。誰も君のことを捨ててなんかないよ」
「……」
「君の両親も、僕も、みんな君が好きだよ」

部屋を出て行く背中が、扉の向こう側に消える。嗚咽を繰り返す彼女を抱き締めながら、ふと息を吐き出した。
お母さん≠ンたいだと、ずっと思っていた。
だけど。

「イスズはイスズのままで大丈夫だから、無理に自分を作らなくたって、誰も嫌いにならないから」




彼女は自分が思う以上に、ずっと弱い人間だった。







20110215
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