彼女は何て言うだろう。
いつものように平然とした顔で答えるだろうか。
まるで夕飯の献立を口にするかのように「さよなら」を言うだろうか。
きっといつものように困ったような笑い顔で、「さよなら」を言うんだ。
顔色1つ変えずに、僕から遠ざかって、離れていくんだ。



嫌わないで欲しいと、泣いている自分がいた。
彼女は静かな湖面のような目をして、僕を見る。
その目は暗に何かの終わり≠告げていた。
その口から発せられる音がカウントダウンだ。
ゼロに近付くにつれ怖気が全身に絡み付く。
そんな言葉聞きたくない。
終わってしまったら、また独りぼっちになってしまう。
逃げるように、走った。
終わってしまうことがたまらなく嫌だった。
独りは嫌だった。
寂しい君は、やっと寂しくなくなった僕を、また寂しくさせるんだ。
嫌い。嫌いだ。そんなイスズなんか大嫌いだ。
――違う。違うよ。違うから、置いていかないで。


前みたいに、僕を独りぼっちなんかにしないで。







「廊下は走らないでください」と、まるで子供同然の言葉が背中に投げつけられる。すれ違う看護婦や患者がギョッとした表情を私に向けては、不快そうに顔を歪めていた。しかしそれすら無理やり意識から除外し、前を走っていく背中を追いかける。胃が熱を持って痛みを訴えた。嘔吐感が込み上げる。それを必死に噛み殺し、ひたすら足を動かした。支えにした点滴が耳元でガチャガチャと騒がしい。一瞬腕から引き抜いてしまおうと考えたが、僅かに残る判断力がそれを制した。
彼の背中はどんどん離れていく。当たり前だ。数時間前に血を吐いた人間に、追いつけるような体力はない。ましてや男女の差すらあるのだから。

「待って」と声を絞り出す。息が上がって喉が乾燥していた。気持ち悪い。吐きそうだ。後ろの方から医者らしき人の私を呼び止める声が聞こえる。きっと怒られるだろう。だが、ここで彼と向き合わなければ、もう二度と会えなくなる気がした。視界がぐらぐらと揺れた。構わず歩を進める。
何の前触れもなく、膝から力が抜けた。体が重力のままに、床に引っ張られるように傾いた。全身に鈍い衝撃が走り、呻きが漏れる。遅れてガシャンと点滴が倒れた。

「う……」

なんて惨めな姿だろう。唇を噛み締め、込み上げる嫌悪感を飲み下した。幸い今いるこの通路は、人がいない。誰にも見られていないだけましなのだろう。
なんとか体を起こすと、ひどく悲痛な顔をした彼が視界に映った。私を見てはひどく狼狽し、しかしその場を去ることに躊躇いがあるのか、動かない。そんな姿に、意を決して言葉を投げかけた。

「話したいことが」
「!」
「たくさん、あります」
「……」

言わなければならないことが、あるはずだった。
胸の内が軋む。
拒絶にも近い色を浮かべた瞳が揺れた。一歩、また一歩と彼は私へと近付く。距離が徐々に縮んでいく。心臓が嫌に大きく鼓動を打った。

「1つだけ、教えて」
「!」

目の前にある瞳が揺れた。息が詰まる。それでも必死に、私は平生の私を装い、首を傾げた。彼は間を置いてから、細い声で言葉を紡いだ。

「イスズは、ずっとイスズのままだよね?」
「え……?」
「僕が知らない人になんか、ならないよね?」


「イスズは、イスズだよね?」
「なんですか。いきなり」
「知らない人になんか、ならないよね?」
「普通なれませんよ」


いつかと同じ質問だった。声が震えて消える。今にも泣いてしまいそうなほど、心細そうな瞳は俯く。彼の伏せられた視線を掬うように、私は言葉を返した。

「ならないし、なれませんよ」
「!」
「だから……――!」

言いかけた言葉は、不意に伸びてきた腕によって阻まれる。細い指が衣服に深い皺を刻む。私の肩口に彼は額を寄せ、息を吐いた。頬を柔らかい髪がくすぐる。
そして引きつった声で、彼は言葉を紡いだ。

「ごめん、なさい」
「!」
「嘘、なんだよ」
「N君?」
「嫌いなんかじゃ、ないよ」
「……!」
「嫌いなんかじゃ、ない。嫌いじゃないんだよ」
「N、君」
「酷いこともして、ごめんよ」
「……」
「ごめん、ごめんよ。違うんだ。ごめん。本当はただ、僕は」
「……もう、大丈夫ですよ」
「ごめん、ごめんね。だから、嫌いになんか、ならないで……」

震える吐息が首筋を掠めた。
私より高いはずの身長も、広いはずの背中も、どれもがひどく小さく頼りないものに思えた。覚束ない指先が必死にしがみついてくる。それを拒絶できるわけがなかった。

――あの時も、そうだ。

小さな手。低い位置にある丸い瞳。細い肩。高めの体温。精一杯に伸ばした腕で私にしがみつき、小さな彼は笑った。そのたびに誓ったのだ。
私がこの子のお母さん≠ノなるのだと。
今の私≠ヘ、あの時の私が思い描いた将来ではない。無惨に砕け散った、がらくたのような人間だ。狭い世界で呼吸をすることに安堵している。陰鬱な感情ばかり引きずってきている。詰まらないちっぽけな人間だ。

でも、たとえ私が思い描いた通りの私になれたって、私は彼のお母さん≠ノはなれるはずがなかった。

私は、やはりどう足掻いても私≠ナしかないのだ。母が望んだイスズ≠ナも、ましてや彼のお母さん≠ナもない。
私は私≠ニしてしか生きていけない。これ以上、他人の期待に応えて自分を殺して作り直すなどできない。
彼は、それでもいいのだろうか。

「私はきっと」
「……」
「ひどい人間です」
「……いいよ」
「嘘吐くし、本当はすぐに泣くし、すぐに諦めるし、何やっても、全然ダメです」
「いいよ、それでも」
「N君の、お母さん≠ノもなれません」
「うん……」
「ダメな人間です」
「いいん、だってば……」
「どうして?」
「僕は君じゃなきゃ、嫌だよ」

薄い水膜を纏う瞳が、向けられた。赤くなった目で、感情を零すまいと唇を噛む。それにつられて泣きそうになった。誤魔化すように、私は無理やり笑う。彼の背中へと自分の腕を回した。とんとんと優しく叩き、腕を離す。

「病室、戻ります」
「……ん」
「さっき先生みたいな方に呼ばれてしまいましたし、怒られますかね」
「う、ん……」
「従兄もそろそろ来る時間なので」
「う……」
「……もう、男の子が泣かないんですよ」

彼の細い指を握り締め、歩き出す。ボロボロと零れ落ちる涙を服の袖で拭ってやりながら、部屋に戻った。






20110126
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