小さな世界で約束をした。
玩具のレールがぐるりと囲む、狭く限られた世界だった。
まるで色鮮やかな玩具箱の中。そこが家族ごっこの世界だった。
「私はお母さん」
「君のお母さん」
だから一緒だと、あの日繰り返し繰り返し言い聞かせた。
「寂しくないよ」
寂しい私と、寂しい君が一緒にいれば、1人じゃないから寂しくないよ。
独りじゃないから寂しくないよ。
……一緒に、いるから、寂しくないよ。




「N君は、私のことを覚えていたのでしょうか」
「……」

傍らにいる男性は、緋色の双眸を細める。柔らかなスペアミントの髪が揺れて、視線は私からそらされた。
……思い出した過去は、あまりに遠く朧気だ。私は自ら望んで閉ざした。思い出したくないと蓋をした。理由は単純だった。私が変わった≠ニ、母が嘆いたからだ。だから私は、母の期待に応えたかった。母の思う私≠ノなりたかった。だから、またなかったこと≠ノしたのだ。忘れたふりをして、思い出すことを止めた。

――両親の不仲という辛い現実を受け入れるために私は私≠変えたのに、私≠ヘ再び自己の変形を強要されたのだ。
結果、何もかも諦めて、理由を作って、逃げ道を作って、堕落した毎日を送ってきた。
そうして情けない醜態を晒しながら自分を守り続けた。

それでも尚、彼は私を、見つけたというのだろうか。

「……貴女のことを、覚えていたのでしょう」
「……」
「記憶として思い出せなくとも、忘れることなどできなかったのでしょう」

紡がれた言葉に、熱が腹の底から込み上げる。
――どうして?
私は大した人間じゃない。大学受験で失敗して、就職したけど上手くいかなくて、育ったホウエンの地から逃げるようにイッシュに来た。イッシュで従兄の会社が経営する企業に入れてもらった。そこでも上手くいかなかった。失業して、仕事を探して、でもどこにも雇ってもらえなかった。
必要ない、詰まらない、意味がない
卑屈な自分が呪いのように唱え続ける。自棄になって、投げやりになった。遺書を書いた。身投げした。でも死ねなかった。
「死にたい」だなんてほざきながらも、私はまだ生きてる。昨日も、今日も。ずるずると陰鬱な感情ばかり引きずってきていた。情けない、だらしない。詰まらない人間だ。下らない、人間なんだ。

「私は」
「遠い昔、望まれない人間だ≠ニ嘯いた男がいました」
「!」
「彼に、彼の妻は言ったのです。それは彼女から彼を奪う者がいないということだと」
「……」
「……卑屈に逃げることは、思っている以上に疲労するものです。違いますか?」

男性の緋色の瞳が揺れる。伸びてきた大きな手のひらが髪を撫でる。遠い昔、父親のように抱き上げてくれた手のひらだった。

――この人が妻を喪って、どれほどの虚ろと寂しさを背負ってきたのかなど容易に想像できない。
どんな思いで息子の成長を見てきたなどわからない。
たとえ理解できたとしても、第三者の介入などできない絆があるのだろう。

「イスズが生まれる前に一度会ったことがあるんだけど、綺麗な言い方をすれば、宝物なんでしょうね」

この人の従姉に当たる私の母は、「私もそうなりたかった」と、結婚式の写真を眺めながら言っていた。父と関係が上手くいかない母。毎日のように飛び交う罵声、怒鳴り声、破砕音、父の謝罪、母の懺悔。それを両親が共に深く悲しんでいたのは、私が一番知っていたはずだった。
辛い。悲しい。寂しい。苦しい。
気付けないだけで、誰もが皆持っている。答えはいつでも至ってシンプルなものばかりのはずだ。それにすら気付けない。答えから遠ざかる。余計に悲しくなる。寂しくなる。辛いなる。苦しくなる。


「……ひとまず、もう少し休んでいなさい」
「!」
「貴女のご親戚が来たときは、私が適当に応対しておきます」
「そんな、大丈夫です。来るのは従兄でしょうから」
「従兄?」
「はい。そんなに気を使う相手でもないので、大丈夫です」

わざとおどけたような口調で返した。彼はほんの少しだけ、眉を寄せる。しかしこれ以上、何かをしてもらうのは気が引けた。ただでさえ病院まで運んでもらったのだ、それだけでも労力や費用がかかってる。迷惑はかけたくない。やや強引に意見を通そうとする私に、快くまではいかなかったが、なんとか了承してくれた。ドアの向こう側に消えた背中を見届け、ベッドから上体を起こす。
……点滴のチューブのせいで、だいぶ動きにくい。
辺りを見回せば、私が倒れたとき持っていた荷物は、側にある引き出しの上にあった。グラエナとマメパトのものであろうボールも2つある。バッグの中身を手探りで漁り、携帯を取り出す。幸いまだ充電は残っていた。
……一度外に出て、まずは彼に電話をしよう。
もう2年以上連絡を取っていない。いや、正確には私がそれを拒み続けたのだ。自分の醜態を晒すのが嫌でたまらなかった。他人の力を借りなければ何一つできない自分の非力さを突き付けられるのが情けなかった。今の自分が如何に惨めか、それを思い知らされるのが恐くてたまらなかった。
思い返せば思い返すほど、私はひどく保身的で小さな人間だ。顕著になる汚点をなぞるほどに、耐え難い嫌悪感が全身を軋ませる。

だがもう、逃げ道はない。震えた手のひらに自嘲を零し、唇を噛み締める。
終わった、という失望感と惨めさ。やっと抜け出せた、という解放感。攪拌される2つの感情に、ついぞ息を止めた。覚悟を決めろと自身に言い聞かせる。

――でも、その前にやるべきことがあるはずだ。

未だ痛みを訴える腹部に手をあてがい、立ち上がる。点滴を支えに歩を進め、ドアを開け、廊下に出た。同時に私のもとへグラエナとマメパトがやって来る。……どうやら病室にあるボールは空のようだ。グラエナが尻尾を振りながら、私から廊下の長椅子へと視線を滑らせた。

濡れたシャドーブルーの瞳が、大きく揺れる。僅かに充血した瞳が、悲痛な色を宿していた。

「……N君」

名前を呼ぶ。彼の薄い肩が震えた。

「私……」

口を開くが、何を言えばいいのかわからなかった。言葉を言いかけて飲み込む。一歩、彼に向かって距離を縮める。同時に彼は、先ほどのように再び私に背を向け走り出した。

そして私は同じように彼を追う。話したいことが、たくさんあるはずなんだ。込み上げてくるたくさんの言葉が、頭の中で飽和した。

一番シンプルな答えは、いつも持っていたのだから。








20110128
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