薬品の匂いが充満した空間だった。皮肉にも、懐かしさを覚えた。最後に来たのはいつだろうか。Nが、生まれた時かもしれない。思い返せば、あの子が生まれるまでは幾度となく彼女の付き添いで訪れていた。いつもいつも、「2人で出かける場所が病院なんかでごめんなさい」と、笑っていた妻の姿が去来する。
診察を受け、薬を処方してもらい、そしてそれを受け取る。決まったパターンを繰り返す彼女を、私は待合室で待つ。それが習慣でもあった。

「顔色が良くなりましたねって言われたの」
「毎日楽しく過ごせているんですねって言われたの」
「だからね、当たり前ですよって、返したの」
「私きっと、世界一今幸せなんですよって」

細い薬指にハマった銀色の指輪を見せながら、彼女は表情を綻ばせる。つられるように私もまた目を細めた。

「良かったな」
「あら、他人事?」
「……」
「貴方がいるから幸せって、言わなきゃわからない?」


――誰からも望まれなかった私でも、幸せにできたのだろうか。

いつも胸の内に鎮座していた黒い痼りが、陰鬱な感情を携えて問いかける。そのたびに彼女は可笑しそうに笑った。「それは貴方が誰かに取られてしまうことがないってことでしょう?」と、彼女は細い肢体を寄せながら笑った。





ストレス性の胃潰瘍だそうだ。吐血したところを見る限り、だいぶ病状が進んでいるらしい。穿孔の可能性もある。何よりも、こんなになるまでよく耐えたと思う。そばで見ている人間がいれば、こんなになるまで苦しむことはなかったはずだ。ひとまずしばらくの間、入院は必至だった。
青白い顔でベッドに横たわる女性を眺めながら、病名を反芻する。その細い腕には、点滴のチューブが繋がっていた。先ほど連絡した彼女の身内の人間も、あと10分もすれば来るだろう。

Nを探していた際だった。偶然にもこの女性も彼の傍らにいたのだ。以前もそこで顔を会わせたが、まさか二度も会うことになるとは思わなかった。何よりも吐血して倒れていようなど、誰が予想できようか。地面に倒れる彼女の側には、蒼白した表情の息子の姿。異変にはすぐに気付いた。
そしてとっさに彼女を組織と縁のある病院へと運んだ。

「……」

視線を病室のドアへと向ける。
……最近様子がおかしいとは思っていた。これと関係があるのだろうか。
廊下にいるであろうNは、彼女の姿に「僕のせいだ」と顔を歪めた。そして頑なに彼女のそばにいることを拒んだのだ。
そして身内が来る前に万が一にでも彼女が起きた時のため、病室に私が残った。
一応血の繋がりは、あるのだ。特に後ろめたいものがあるわけでもない。
規則的な呼吸音が響く中で、再び彼女の姿が浮かんでは弾けた。

「……似て、ますか」
「――!」

不意に、彼女の口が開いた。心臓が跳ね上がる。彼女の睫が震え、瞼が持ち上がった。影が落とされた瞳が、薄く濡れた膜を纏っている。緩慢な動作でその瞳は向けられた。努めて冷静を装い、私は彼女を見る。

「起こしてしまいましたか」
「いえ……むしろ、ありがとうございます」
「……医師は、胃潰瘍だと。苦労をなさっているようですね」
「そうですか」
「……」

掠れた声が、しんとした空間に嫌に響く。沈黙すれば時間の流れが気の遠くなるようなものに感じられた。焦点の合わない瞳を伏せ、彼女は首を擡げる。無音の空間は際限がない。その沈黙を破ったのは彼女だった。

「写真を思い出しました。あの女の人。貴方の、奥さん」
「!」

疲れきった瞳が向けられる。今まで重なって見えた面影がブレた。同時に脳裏に、遠い過去に自分のもとを訪れた母子の姿が浮かび上がる。その時に見た幼い少女と、目の前の女性の姿が一致した。

「似てますね≠ニ、写真の……女性を指しながら、貴方が、泣いていた小さな私をあやしてくれたのを、思い出しました」
「もう15年近く昔のことだ」
「……」

小さく苦笑すると、彼女は困ったように笑った。
ああ、やはりそうなのだ。
忘却の淵に埋もれた記憶が紐解かれる。重く蓋をして、忘れ去ったはずの感情が螺旋のように渦を巻いた。苦い記憶だといえばそうかもしれない。
――15年前。少女。あの女。泣いていた。N。玩具。小さなポケモン。写真。ホウエン。
父方の従姉だと告げた女が、何の前触れもなく訪れたあの日が再生される。預かって欲しいと、強引に押しつけられた小さな子供。あまりに泣き止まないものだから、その小さな肢体を抱き上げ、何度も慰めの言葉をかけた。可笑しな話だ。自分の子供には、そのようなことをしてやったことなどなかったのに。
怖くて、できやしなかったのに。
私は代用品を得たことで、父親≠ニいう役を果たした気になっていたのだ。

「忘れてしまうものですね」
「私の場合は、忘れたかったのかもしれません」

彼女は自嘲混じりに答える。脳の深部で声が再生された。

「ママはどうせ迎えに来ないよ」
「だってパパが私のこと嫌いなんだもん」
「私、お母さん≠ノなる」
「あの子を守ってあげるの」
「私はパパやママみたいにならないから大丈夫だよ」

「寂しくない」と言った小さな彼女に、私は「嘘はいけない」と返した。少女は小さな小さな虚勢すら崩されて泣き出した。
――父と母の不仲を、自分のせいだと思っていた。
彼女の母がここに彼女を置いていったのは、当時仕事が上手くいかず、苛立ちに任せて感情をぶつける自分たちから遠ざけ、今後の夫婦の関係の話し合いのためだった。

しかし彼女は幼いながら、その無知故に責めるべき対象を己に向けるしかなかった。彼女は自分を殺した。
小さな子供には、当時向けられる感情を受け止めるだけの許容量がなかったのだ。
今のままでダメなら、新しく受け入れられるだけの自分≠作らなければならない。
自分を殺して新しい自分の型を作った。
それが母親≠ノなるということだったのかもしれない。母のいないあの子の欠落を埋めて、そこに自己を見出そうとした。
母親≠ニいう役を得ることで、自分の存在価値を見出した。今までの、両親の汚点に晒される自分はいなかったことにした。
しかしそれは束の間の夢に終わったのだ。
彼女の母は迎えにきた。
母親≠ニいう型を捨てなければならなくなった。
残ったのは、自己防衛のための諦念≠Pつ。

「あの子に何したの」
「あの子はあんな子じゃなかったのに」
「あんたに預けた日から、ずっと変なの」
「今までのイスズじゃない」
「あの子が死んだみたいだ」
「あんたがあたしたちのイスズを殺したのよ」


――違いますよ。彼女は、自分を守るために自分で自分を殺したのです。

何1つわがままを言わない我が子に、あの女は違和感と恐怖を抱いたのだろう。子供というのは、己の心境の変化が顕著に表に現れる。幼少時の自己形成を歪ませたのは間違いなく両親だ。彼女は自己形成とともに自己防衛をした。それだけのことだ。


「責められるべきは、合わない男と結婚して、子供に醜態ばかりさらす貴女ですよ」

形は違えども、そうして息子を育てた私に言えた義理ではない。そう、体の奥底で嘲る自分がいた。


「私は忘れたくて思い出さないことにしたんです」
「……」
「逃げて、怯えて、避けて。私は彼に母親≠与えながら、自分の手で取り上げました。自業自得、です」



彼女は目を細め、呻くように言った。






20110128
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