それはおそらく夢だった。

誰かを愛そうとしない人間が、誰かに愛されるはずがなかった。
誰かを求めようとしない人間が、誰かに求められるはずもなかった。
欲しがることを止めた人間が、何かを手に入れられるはずがなかった。
ひとりぼっちになるのは必然なのだ。自分が他人に無関心である以上、誰かが関心を向けてくれることなどない。疎外感は依然として当然のように鎮座する。それを自業自得だと、いつも卑屈な自分が笑いかけた。そのたびに鏡に映る自分を侮蔑する。

――それすら認めたくないあまりに、外界に対して受動的になっていく。全て受け入れてしまえば傷付かないのだと勘違いをした。

それでもたった一つだけ、欲しかったものがあった。







「私、お母さんになる」

頭一つ分低い位置にあるシャドーブルーの瞳を見つめると、その言葉が無意識に口から零れ落ちた。足下にはたくさんの玩具が落ちている。モノレールにぬいぐるみ、積み木にボール、おもちゃの手鏡。色とりどりな空間だった。
――鏡には、小さな人影が二つ映っている。私と、あと一人は誰だろう。小さな男の子だった。いや、そもそもそこに映っているのは本当に私≠セろうか。思考をジリジリと焼く不信感に眩暈がした。カチカチカチと、アナログ時計の振り子の音が響く。

「つぎは、でんしゃごっこしてあそぼう」

無邪気に笑う男の子が、床に散らばったレールを拾い集め、繋ぎ合わせる。ぐるりと回る環状線が出来上がった。私と彼を閉じ込めるように、周りをおもちゃのレールが囲む。「できた」と笑う小さな彼は、電池を替えたばかりのモノレールを走らせた。しかし積み木にぶつかってすぐに止まる。
「こわれちゃったの」と見つめてくるシャドブルーの瞳に、私はそっと彼へと手を伸ばした。

柔らかな頬をそっと撫でる私の手は、まだ小さい。ちっぽけな手のひらだ。どんなに指を広げようと、その手に収まるものは限られている。
こんな小さな手では何一つ掴めやしないのに、私は何を掴もうとしていたのだろう。何が欲しかったのだろう。
目の前の深く空虚な瞳が、深海のように揺らめいた。

「どうしたの?」

優しく柔らかく、寂しげなソプラノが言葉を紡ぐ。声は迷子のように辺りをさまよい、宙に霧散した。
彼が私の指に自分のそれをそっと絡めた。肌の白さとは対照的な高めの体温が、じんわりと伝わる。――ああ、私はこの子が欲しかったのかもしれない。

「ママ、ぼく」

――なに?

私が首を傾げると彼が無邪気に笑う。そしてもう一度「ママ」と繰り返した。

「僕はママが大好きだよ」
「うん」
「ママも僕を好き?」
「うん、大好き」
「ね、ママ」
「なに?」
「一番? ママ、僕はママの一番がいいな」
「一番、大好き」

――もう、寂しい思いなど、させないように。
鏡に映る小さな私が笑う。彼も笑って、ただ静かに小さな肢体を私に寄せた。私は応えるように彼を抱き締め返す。腕に抱いた柔らかい体温が、たまらなく愛おしかった。鼻孔を悲しい香りがくすぐる。手に入れたのだと思った。

同時に頭の奥深くで、ビシビシと何かに皹が入った。ママ、と呼ぶ彼の声が和音になる。幾重にも音が重なって、頭で反響して砕ける。そして再構築される。
次にママと紡がれた時、ソプラノの声はまるで別の低めの声になっていた。
私の腰にしがみつくようにしていた小さな彼は、私を覆うほど大きくなっている。私は、青年になった彼≠ノ抱きしめられていた。私はまだ子供のままだ。
アルトの声が言葉を紡ぐ。

「好きな人ができたよ」

「ママ」

「僕、ちゃんと、誰かを」

――「私」以外の、誰かを。
彼も想う日が。

ビシリと手鏡に皹が入った。そこに映る子供の私も、ひび割れる。鏡が砕けて辺りに散らばった。私の視界がぐらりと揺れる。声が喉に絡みついて言葉が出なかった。

彼≠ェ私から離れる。その肩越しに、大人になった私≠ェ見えた。
――あれ、おかしいな。
大人の私≠ェいるなら、なんでまだ私がいるのだろう。
途端に私の体はパリンと音を立てて割れた。床に散らばった鏡の破片に、砕けた私の破片が混じる。彼≠フシャドーブルーの瞳の色を反射して、きらきら光った。
割れた破片の隙間から、私は彼≠ニ私≠見る。
彼≠ヘ私に背を向けて、大人の私≠フ方へ走り出した。

待って、待って。待ってよ。行かないで。置いていかないで。

頭の中で悲鳴が反響する。彼の背中が離れていく。私は彼を呼ぶのだが、その声は破片となっては砕けていくだけだった。
砕けた私の破片はあちこちに散らばっている。彼≠ヘ足下にある破片を気付かずに踏んだ。パキリと音を立てて更に砕ける。そして辿り着いた彼≠ェ私≠ノ手を伸ばした。二人はどこか寂しそうだ。


――なんだ、やっぱり欲しいものなんか手に入らないじゃないか。
思考に絡み付く諦念に、鏡に映った私は嘲る。

遠い朧気なあの日。
私≠ェ、私を殺した日。




20101012
修正20110102
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