忘れようと、思った。

もう、いっそのこと忘れてしまえば楽なのだと思った。彼女は嘘吐きだった。僕が知っている世界は嘘で塗り固められていて、そこから這い出なければならない。神話の英雄になるためには、嘘はあってはならない。
だから忘れることに決めた。
――頭の中で、ガラス玉が砕け散る。彼女の姿が無数に散らばった。
忘れよう。
僕は、嫌いだから。
僕は彼女が嫌いなんだから。
忘れよう。
信じていたのに、それが嘘だったのだから。
忘れよう。
思い出すことなどないように。

でも、上手く、できないのは何故だろう。





ついて来ないでくれ、と、その言葉だけが頭の中を巡る。込み上げてくる熱を振り切るように走った。息も上がってきている。何度か人にぶつかりそうになった。それでも彼女は付いてくる。帽子が落ちる。拾う余裕はなかった。足が痛い。こんなに走ったことなんかない。息が苦しい。まだ付いてくる。

「……どうして」

嫌いなんでしょ。
嘘吐いてたんでしょ。
どうせ、僕なんか。

「お前はアイツの何がそんなに気に入らないんだ?」

あの日、あの夜の帰りのゾロアークの言葉が脳裏を過ぎった。

「嘘吐いてただけ≠セろ」
「お前に損害も被害もない」
「ただアイツが保身の為に黙っていただけだろ」
「拒絶するほどのことか」

拒絶、なのだろうか。
わからない。
ただ、怖かった。
怖かった?

「貴方の大好きなイスズ≠焉Aいつかは本当のことを話してくださればいいですね」

ゲーチスが言ったんだ。
今まで僕が過ごした時間全部が、嘘だと言うように。否定するように。
怖くなった。
ゲーチスが言うと全部本当のことのように思えた。彼の言葉を否定するだけの根拠も世界も、僕は知らない。彼が唱える世界は真っ暗で、それを止める為の神話の再現は、何故か影があった。否定ができない。世界を知らないから。否定ができない。それだけの真実を持っていないから。
だから彼女は彼女でなくて、彼女は嘘を吐いていて、彼女は、僕なんか嫌いだ。

「違うだろ。お前は、イスズなんか初めから好き≠ネんかじゃないだろ」
「お前はカッコ悪いよね」
「だってお前がアイツに求めたのは」

足を止める。必死に酸素を取り込もうと荒い呼吸を繰り返した。振り返った先にいる彼女も、苦しげに肩で呼吸をしていた。荒げる息を噛み殺し、彼女を見据える。
僕が彼女に求めたもの。
初めから僕は彼女を好き≠カゃなかった。
好き≠ネんかじゃなかった。
もっと別の。
僕が、探していたのは。


――絶対的な、母親≠フ像なのだから。


だから、自らそれを壊したイスズに恐怖を抱いたんだろう

ちっぽけな世界の片鱗は、硝子のように砕け散った。辺りに散らばって、無惨な景色を晒す。――それが許せなかった?
だからその破片すら踏み潰して、粉々に砕いて、見ないことにした。最初からなかったことにしたかった。


「ついて来るなっ」
「……!」
「僕は君なんか、嫌いなんだ」
「……」
「君なんか嫌い、だから……来ない、で」
「N君」
「来るな!」

覚束ない足取りで、彼女はゆっくりとこちらに来る。体が反射的に強張った。心臓がどくどくと重く鼓動を打つ。血液と一緒になって、罪悪感が全身に送り出される。
彼女はゆっくりと、右手を持ち上げた。ビクリと肩が震える。その細い手には、僕が落とした帽子が握られていた。

「……落としたでしょう」
「!」

困ったように笑いながら、彼女は言った。息もだいぶ整ってきたのに、ひどく苦しそうだった。
どうして、砕いたものを、また元通りにするようなことをするのだろう。
自分から壊したくせに。自分で壊したくせに。
――でも。違う、本当は違う。そんなことぐらいわかってる。
僕が勝手に、自分の中で彼女をそう作り上げただけだ。母親の像に彼女を押し込めて満足していた。父がいる。母がいる。絵本を読んで、欲しかったものが揃った。それに勝手に大満足していた。彼女は何もしていない。ただ、それから僅かに外れただけだ。

本当は嫌いなんかじゃない。
嫌いじゃない。
僕だって、嘘を吐いた。

震える指先を抑え、彼女が差し出す帽子を受け取る。彼女は一度だけ僕と視線を合わせた。その瞳はひどく疲れきっている。色濃く疲労を浮かべた瞳は、それでも優しく細められた。

「気をつけてくださいね」
「……」

――彼女が、そういう人だということは知っているはずだった。しかしキリキリと胸の奥深くを締め付ける痛みは止まない。
彼女は躊躇わずに背中を向ける。
寂しいと、泣いてしまいそうな自分がいた。

「……っイスズ」
「!」

ピタリと止まる背中。前にも、雨の中で、雑踏の中で、呼びかけた時に止まってくれた背中だった。振り向く横顔は嫌な顔1つしない。「どうしたんですか」と、困ったように笑う。笑う。

「――え……?」

笑ってくれると思ったのに。
ぐらりと、不意に景色が傾いた。違う。傾いたのはイスズだ。僕を見ていた目が色をなくして見開いて、横顔が生気をなくして青白くなる。
何が起きたのかわからなかった。
彼女はそのまま地面に崩れて、苦しそうに何度も咳をした。咳を繰り返して、真っ赤なものを吐いた。地面に染み込んで、土に赤黒く滲んだ。

「イスズ……?」

何。何が起こっているの。

「どうしたんだい、ねえ」

グラエナとマメパトがひどく狼狽している。辺りに人が集まってくる。
遠くでゲーチスや団員の誰かが僕を探している声が聞こえた。
体が震え出す。呼びかけてもイスズは答えない。
するとゲーチスが僕たちに気付いたのか、こちらにやって来た。
そして彼女を見るなり彼は、動けない僕を押しのけて彼女をどこかに運んでいった。






20110122
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