足元に散らばった硝子の破片が、月明かりを反射する。頬に走った亀裂がシーツに赤いシミを滲ませていた。

頭の中で「大嫌いだ」という言葉が何度も再生される。ただベッドの上で放心していた私は、自身の喉元に指先を這わせた。まだ鈍く重苦しい感覚が残っている。ポタリとまたシミが増えた。

「……だいきらい……」

誰もいなくなった部屋で、声が反響する。
……一瞬の出来事だったと思う。あの時彼を止めたのは、突然部屋に入ってきたゾロアークだった。ゾロアークは窓硝子を突き破り、私に跨る彼を突き飛ばしたのだ。突き飛ばされた彼はベッドから突き落とされ、勢い良くテーブルに体を打ち付けた。彼が小さく呻く。それと同時に、絞め付けられていた気道が解放され、私は激しく咳き込んだ。その時に、積み重ねられていたノートや本の山が崩れて、床に落ちたのだ。バサバサとせわしない音がしたのを耳が覚えている。
――ノートに挟まっていた手紙と便箋が、彼の視界に収まった。

今日も死ねませんでした

白い便箋に書かれた文字の羅列が、ただ静かに空間に横たわる。
見られたくないものだった。彼にだけは、見せてはいけないものだった。私がずっとひた隠しにしてきた局所だった。私が、一番見られたくない、私自身の汚点だった。
彼のシャドーブルーの瞳が、一際大きく揺らめく。大粒の涙を落として、彼はその場から走り去った。ゾロアークも私を一瞥して、彼のあとを追っていった。

……窓硝子が割れた時に、破片が掠って切れたのだろう。頬が小さな痛みを認識した。吹き込んでくる夜風が冷たい。1人取り残された空間で、私は膝を抱えた。ポタリポタリと、シミが広がる。

「だいきらいだよ」

私は、私自身≠ェ一番大嫌いだ。私が嫌いな私≠、彼が「大嫌い」だというのは道理に適っている。何もおかしいことなどない。私≠ヘみんなの嫌われ者だ。だって私≠烽ンんな嫌いなのだから。だから誰も好きになろうとしない私≠ヘ誰からも好かれないし、誰も必要としない私≠ヘ誰からも必要とされない。
因果応報だ。
因果応報であるはずなのに。

「う……」

嗚咽が止まらない。
涙がシーツにどんどんシミを作っていく。
砕けた硝子が鏡のように私の姿を反射して、月明かりに冷たく光っていた。







そしてその日から、彼はまた来なくなった。

3日、1週間、2週間、1ヶ月。首にあった手形は、2日で消えた。まるで彼が消えたような錯覚を抱いた。何よりも時間は面白いほど簡単に呆気なく過ぎていったのだ。体の中心を穿たれたような、がらんどうの時間をぼんやりと消費していく。毎日は楽しくもなければ詰まらなくもない。マメパトとグラエナがいるから、そんなに寂しいわけでもなかった。
仕事もなんとかバイトを見つけた。生活も、貯金がまだ残っているし、なんとか繋いでいる。

あの日は、割れた窓硝子の破片の掃除や、その一時的な補修のためにビニールやガムテープを探しているうちに夜は明けてしまったのだと思う。奇妙なまでに明瞭に記憶に残っていた。まるで他人の写真を駒送りに見ていたような現実感の無さだった。ただ、その日から虚脱感だけがずるずると尾を引いている。
眠れない日も続いており、そのせいか体のあちこちが怠い。背部痛や胃痛もあった。ただでさえバイトで疲れているのに、不調に拍車がかかってしまったようだ。

鏡に映るやつれた自分に自嘲を投げかけた。すると傍らに来たグラエナが懸念の視線を向けてくる。

「……大丈夫ですよ」

小さく喉を鳴らす彼に、苦笑を零す。
今日は久しぶりの休みだ。昨日が給料日だったこともあり、お金も余裕がある。また、以前のように出かけようか。マメパトとグラエナに視線を向ける。私の言葉に、2匹ははしゃぐような仕草を見せた。


――家を出る時、私は鍵を締めないでおいた。
もともと盗まれて困るほどの物は持ってないし、何よりも以前の彼のことが脳裏をよぎったからだ。
もしかして、もしかしたら、なんて期待は、ここ1ヶ月の間無駄に引きずってきている。頭の中で諦念に意志を傾ける反面、心のどこかで期待している自分がいるのだ。

目を伏せ、鍵穴へと差し込もうとする鍵を制止する。そのままポケットにしまい、家に背を向けた。握り締めた鍵の冷たさが、嫌に手のひらの体温を奪っていった。

今日は、またソウリュウシティ近くのショッピングモールにでも行こう。





以前のように電車に乗り込み、目的地までの時間を車体に揺られて過ごす。
ただ、今回は最近体調が良くない日が続いていたからか、酔ってしまった。胃の辺りが熱を持ち、吐き気とだるさが体に纏わりつく。駅に着くなり覚束ない足取りでホームを出て、近くのベンチに腰を下ろした。
マメパトとグラエナは、近くの草村で遊んでいる。以前来たときは、どこかせわしなく買い物をしていたが、今回はゆっくりできそうだ。深く息を吐き出しながら肩の力を抜いた。

――そういえば、前回ここに来たときはあの男の人に会ったのだ。
そして帰宅した時、彼が家の前にいた。
彼の様子にはその少し前から懸念していた節がある。その日もどことなく落ち込んだ様子だった。そして彼は「ゲーチスに会っただろ」と私に問い質したのだ。
……流れからして、あの人が「ゲーチス」という人なのだろうか。しかし、そんな偶然があるのだろうか。2人は一体どのような関係なのだろう。
頭の中に青年と男性の姿を描く。
同じ髪色、違う目の色。漠然と、2つの影が頭の中で重なっては霞んで霧散した。

「……似てる、かな」

こんなことを考えても、仕方がないのだけれど。もう、会うことがないかもしれないのだ。そんな思考を巡らすのは今さらだろう。
……体の中心が澱んでいく。胃の辺りがキリキリと痛い。
首を擡げ、深く息を吐き出した。すると不意にグラエナに服の袖を引かれ、我に返る。

「……?」

どうしたのか。首を傾げると、グラエナはくるりと身を翻して歩き出す。そして数歩歩いては私を振り返った。ついて来いということだろう。何か面白いものでも発見したのだろうか。体の不調を強引に押し殺し、その柔らかな背中を追う。マメパトがグラエナの背中に降り、私を振り返った。

1人、2人、3人。2匹が進む方向に行くにつれ、すれ違う人の数が増えていく。このままではショッピングモールから遠ざかってしまう。それに2匹が向かう先にあるのはソウリュウシティだ。買い物より街中を歩き回りたいのだろうか。
そんなことを思っているうちに、街に着いてしまった。

体に根付いただるさに不快感を引きずりながらも、楽しそうに尻尾を振るグラエナに笑みを浮かべる。しかし不意に彼の背中に乗っていたマメパトが羽をばたつかせ、ふわりと浮かび上がった。あ、と声上げるより先に、マメパトは誰か≠ノ止まった。

――誰か=H

「あはは、マメパトはそこがお気に入りですか。N君の髪は柔らかそうですからね」
「……同じこと言ってるよ」


「――N、君?」
「……!」

人影に混じって、柔らかい緑が風に揺れる。シャドーブルーの瞳と目があった。最後に会った日と変わらない様子の彼は、ただ愕然と立ち尽くしていた。
見開かれた瞳は怯えと嫌悪を宿している。そして逃げるように走り出した。


「……!」


――待って。
――待って。
――行かないで。
頭の奥深くで、私≠ェ悲鳴を上げた。

それを合図に、私は反射的にその背中を追いかけた。







20110121
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