『もしもし、■■■さんですね。■■■の者です』
『はい』
携帯の通話ボタンを押す。聞き慣れない、愛想が籠もった無機質な声が響いた。
先日受けた企業だ。必死に求人票を探し回って、やっと受けられた会社だ。結果が来たのだろうか。不安がぼこりと膨れ上がる。
『申し訳ありません。今回はやはり人手が足りてまして……』
『そう、ですか』
頭の中がぐらりと揺れた。視界がチカチカと点滅する。胃がぎゅっと締め付けられた。痛い。
やっぱり私はダメなんだ。私みたいな人間ダメなんだ。要らないんだ。ダメなんだ。
卑屈な私が鎌首を擡げて、陰湿な言葉を吐いている。
*
せっかくショッピングモールに来たのだが、欲しいものだけを購入して私はどこか忙しなく帰宅した。あの男性の言葉と異様な焦りが、頭に焼き付いて離れない。
彼が何者なのか、あの言葉の意味は何なのか、私に何を伝えようとしていたのか。それはわからない。しかし胸中に鎮座した不安に、足元が崩れ落ちていくような感覚に捕らわれた。
――外にいるのがたまらなく不安で、早く家に帰りたかった。
不安に急かされるように買い物を済まし、電車に乗り、帰路を辿る。
その頃には辺りは真っ暗で、時刻は九時を回っていた。
夜風の冷たさに身震いしながら、足早に家を目指す。漸く自宅が見えてきたところで、無意識に強張っていた体が弛緩した。小走りで玄関に向かう。
「!」
だがその足は必然的に止まった。玄関の前にうずくまる影に息を呑む。服の袖を引いたグラエナに、とっさに我に返り、私は弾かれるようにその影のもとに向かった。
「N君」
その背中に、確認するように問いかける。肩が大きく震えた。淡い緑の髪が風に揺れるのを見て、背中に手を添える。俯いていた顔がゆっくりと持ち上がり、こちらを見た。
「イスズ……」
「ごめんなさい。今日ちょうど遠くまで出かけていて。鍵、開けておけば良かったですね」
「……」
こちらに白い手が伸びてくる。それを握れば、冷え切った体温が肌を刺した。一体いつから彼はここにいたのだろう。
待っていたのかと思うと、いたたまれない気分になった。このままでは風邪を引いてしまう。ひとまず鍵を開け、彼の手を引き家の中に入った。
電気をつけ、リビングに入る。明るみに晒された彼の顔は、瞼が微かに腫れているように見えた。
「寒かったでしょう。ココア入れますね。ああ、お腹は空いていませんか?」
「平気……」
「……暖房付けましょうか。寒いですし」
「イスズ」
「!」
ふらふらと彼は私の方へと歩いてくる。それにお湯を沸かしていた手を止めて、背後を振り返った。伸びてきた手のひらが、頬に触れる。
――何故か、昼間会った男性と彼の印象が被った。
一瞬だけ息を止め、表情に笑みを貼り付けながらどうしたのかと問いかける。彼はシャドーブルーの瞳を細めた。
「ゲーチスに会っただろ」
「え?」
ゲーチス=H
意味がわからず、眉をひそめる。しかしすぐに心当たりが脳裏をよぎり、心臓が跳ねた。
早なる鼓動を気取られないよう、敢えてゆっくりと言葉を紡ぐ。
「突然どうしたんですか? 寝ぼけてます?」
「同じ匂いがするんだ」
「!」
彼の瞳が近づいた。私は一歩だけ後退する。
「どんなに否定したって、聞こえるものは真実なのにね」
「は……?」
「彼は嫌いなんだよ。みんな嫌い。トモダチも嫌い。僕も嫌い。自分も嫌い」
「N君、何を」
「彼が好き≠ネのは母さんだけだ。それ以外嫌いなんだよ。だから声が聞こえる間は誰とも会わないはずなんだ」
「何を言ってるのか、よくわかりません」
「でも、イスズは、どうして、ゲーチスと会ったんだい?」
変だ
「おかしいな」
「何を……きちんとわかるよう話してください」
「こんなの知らない。僕の、知っているもののどれにも当てはまらない」
「だから、何を」
「ずるいね……」
「N君?」
「ずるい……みんな、みんなずるいよ。僕ばかりいつも置いてきぼりだ。僕にばかり、嘘吐く……」
「N、く」
「なんで、僕はいつも、仲間外れなんだろう?」
シャドーブルーの瞳が大きく揺れる。濡れた瞳から感情を零すまいと、彼は唇を噛んだ。
途端に、罪悪感が腹の底から込み上げてくる。喉の奥をギュッと締め付けられるような痛みに襲われ、呼吸が不自然になった。
彼の腕が縋るように伸びてくる。私はそれに何故か戦慄した。しかし振り払うことも何もできずに、ただ身を寄せてくる冷たい体温を抱き締める。
息が上手くできない。
「イスズ」
彼の肩が震えているのは、寒さからだろうか。それとも別の意味合いがあるのだろうか。気付きながらも私は分からない振りをした。
小さな子供をあやすように彼の背中をさする。
「どうして何も言わずにどこかに行くの」
「ちゃんと今日も帰ってきましたよ」
「仲間外れは嫌だ」
「仲間外れも何も、私とN君しかいないでしょう」
「イスズは、どうして、どこに、行きたいの?」
「……私に行き場所なんて、ここ以外にありません」
「イスズ」
「何ですか?」
「僕のこと、好き?」
彼の腕の力が増す。彼の吐息が震えるのが分かった。私は変わらずその背中をさすりながら答えた。
「大好きですよ」
その言葉の、意味の重みも知らずに私は言う。
20101215
修正20110103