「夕飯の買い出し、行きましょうか」

ようやく髪も乾いたところで、私はドライヤーのスイッチを切った。五月蠅い風音がピタリと鳴り終わり、彼がそれに呼応するように鏡越しに視線を向ける。彼の傍らで遊んでいたグラエナとマメパトも一瞬だけ動きを止めた。……今日来たばかりのマメパトだが、グラエナとはもう打ち解けているようだ。2匹の無邪気な様子に頬が自然と緩んだ。
それにシャワーを浴びて体も温まり、服も着替え一息ついた感覚に、無意識に吐息が零れる。
すると心なしか、鏡越しに映る彼が眉をひそめた。それに鏡から背後へと視線を滑らせる。

「大丈夫かい?」
「え?」
「疲れてるでしょ?」

今、ため息吐いたよ、と。控えめに言葉は空間に落とされた。それを掬い上げるように小さく苦笑する。そんなことはないと返せば、彼は眉を寄せた。
……先日から、彼は異様なまでに私に気を使っているように見える。別にだからどうというわけではないのだが、これだと私も気を使ってしまう。何よりからかい難い。
相変わらずどこか暗い表情を浮かべている彼に、その空気を払拭するように財布をとってくると告げて笑みを浮かべた。

準備が整ったところで家を出る。せっかくだから、マメパトとグラエナも連れて行こう。そう提案すると、グラエナは私の足下にすり寄り、マメパトは彼の頭に止まった。

「わ……!」
「あはは、マメパトはそこがお気に入りですか。N君の髪は柔らかそうですからね」
「……同じこと言ってるよ」

私が笑うと、彼は少しだけ困ったように笑った。マメパトは小さく首を傾げて、表情の読めない瞳を瞬く。足元にいるグラエナを撫でて、玄関に向かった。
すると不意に、彼が何に気づいたのか声を上げる。視線をそちらに向けると、彼は身を屈めて、足元にある固定電話機の線をつまみ上げた。

「線、切れてるよ」

白い指先が黒いコードの切断面見せる。不自然にほつれた切断面は、まるで引きちぎったかのようだった。

「ああ、本当ですね」
「これじゃあ万が一大切な連絡があった時大変だよ。直しておかないと」
「買い物行きますしついでに新しいコードを買いましょうか」
「でもいつ切れたんだろう。この電話、そんなに古くないよね」
「まあ……」
「連絡とか、大丈夫だったかな」

ふと、彼は私から視線をそらした。そして僅かに身を堅くする。グラエナが不安げに彼のそばに寄った。

「イスズの……仕事先から、とか……」
「……! ああ」
「イスズ……」
「大丈夫ですよ、大した仕事じゃありませんし」
「……」
「私がいなくなったって、誰かが困るということはないでしょ」

ほら、私、影が薄いですから。
そう冗談混じりに、特に深い意味もなく零した言葉に、彼の肩が震えた。見開いたシャドーブルーの瞳が向けられる。彼に対して何を言ったわけでもないのに、まるでひどくショックを受けたような表情だった。そして怯えるように彼は身を縮める。
――さすがにその様子には面食らってしまった。一体どうしたのだろう。
自身の体を抱き締めるように体を強ばらせる彼に、眉をひそめる。それに名前を呼びかけるが、彼は反応しない。

「具合が悪いんですか?」

傍らに寄り、その表情を覗き込むように首を傾げる。グラエナも落ち着かない様子で彼の周りを彷徨いていた。マメパトも彼の頭からグラエナの背中へと移動する。そしてそっと彼の背中に触れた。

「体調が優れないなら、休んでていいですよ」
「……」
「無理しなくて大丈夫ですから。買い物なら一人で行けますし」
「!」

気を使って、かけたはずの言葉だった。小さく吐息をついて、傍らにいるグラエナやマメパトに視線を向ける。……昼食の準備や、先日壊れた傘の代わりを買わなければならない。買い物はできるだけ行けるときに行きたいのだ。
動こうとしない彼をグラエナに頼み、私は彼に背を向ける。
しかし歩を進めようと足を動かせば、不意に伸びてきた腕が体に絡みついてきた。

「待って」
「無理しなくていいんですよ」
「行かない、で」
「……N君?」
「置いていかないで」
「どうしたんですか?」
「イスズ……」

首に触れる彼の吐息が震えた。
後ろから抱きすくめてくる形の彼に視線を送る。うなじに押し当てられたその表情は、伺うことができない。しがみついてくるような手を優しく撫で、親が子を諭すように腕を解いた。

「何かあったんですか?」
「……」
「ここ最近ずっと様子が変ですよ。無理に話せとは言いませんが、何かあったら私に遠慮なんかしないでください」
「別に何も、ないよ」
「ならしゃんとしないと」
「……」
「男の子でしょう?」

シャドーブルーの瞳を覗き込む。同時に伸びてくる彼の腕は、しがみつくように私に触れた。
甘えるような態度をとる彼が、別に煩わしいわけではない。ただ私自身、そういったものに慣れていないので、どうにも困惑してしまうのだ。
いつもいつも曖昧な、まるで小さな子供を相手にするような対応になってしまう。仮にも十代後半の青年に対する態度ではないだろう。
そう思いながらも、私はやはり幼子をあやすように彼の背中をさすった。

「お腹空きませんか? 早く買い物行って、お昼にしましょうよ」
「……」
「あ……もしかしてハンバーグじゃないものが食べたくなったとか?」
「……違う」
「じゃあお昼はハンバーグで決定ですね。夕飯の支度もついでにしたいので材料を買おうと思うのですが、N君は今日どうします? 食べていきますか? それとも帰りますか?」
「……」
「どうしますか?」

極力優しく、柔らかい口調で問いかける。私の肩に額を押し付け、そして背中へと両腕を回している彼は、更に力を込めた。

「今日は……帰る、よ」
「そうですか」

とんとんと背中を優しく叩く。それを合図にゆっくりと離れる彼は、遠慮がちに私と視線を合わせた。心なしか濡れている瞳は、まるで迷子の子供のようだった。

「買い物、行きます? それとも待ってます?」
「行く。行くよ……」
「じゃあそんな情けない顔しない」
「!」
「男の子は簡単に泣かないんです」
「泣いてなんかないよ」

少しだけ困ったような表情を作る彼に、小さく笑う。気を取り直して改めて玄関を抜けると、澄んだ空が頭上を覆っていた。





私の背後をただ黙って付いてくる彼は、買い物の最中も相変わらず暗い表情を抱えていたように思う。家に帰り昼食を作っている時もそうだ。
昼食を食べた後に帰ると呟いた彼は、文字通り昼食後に何も言わずにふらふらと家を出て行った。
まるで、私なんか同じ空間にいないみたいな扱いだ。いつも家を出る時、彼は私に一声かけるから、余計そう思えた。だが別段それは気にかけるべきことではない。彼だって、いつかは二度とここを訪れなくなるのだから。
思考の片隅に常にこびりついている諦念が、私にそう囁いた。

ただ、妙に険しい表情をしていたのが、頭に引っかかっている。





20101122
修正20110102
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