言わなければ良かった。
何故あんなことを言ってしまったのだろう。ついぞ思考を焼く嫌悪に、千切れるような罪悪感が波打った。羞恥とも憤怒ともつかない感情が心臓に突き刺さる。
だが、ほとんど衝動的だったのだ。不安だった。恐かった。僕が知らない彼女がいると思うと、置き去りにされたようで、たまらなく厭だった。裏切られてしまったような、そんな気がしてならなかった。――同じくらい、苛立ちが発露した。
ひどく子供じみていることはわかっている。それは、単なるわがままだ。幼い子供が友人を奪われて嫉妬するような、そんな些細な意地だ。意味のない糾弾だ。それでも死に物狂いでしがみついている今の安定を、手放したくはなかった。
――けれども、もしこんな意地のせいで彼女が離れていってしまったらどうしよう。嫌われてしまったらどうしよう。また置き去りにされたらどうしよう。
途端に彼女が現実に生きる「生身の人間」に思えた。逃げ続けてきた「現実」を押し付けられ、それに押し潰されてしまいそうだ。息が苦しい。窒息する。苦しい。苦しい。
怖い。
総てを失ってしまうことが怖い。がらんどうのまま、亡霊のような自分に戻ってしまうことが怖い。





「昨日は、突然変なことを聞いてごめん」
「!」

目が合うなり、彼は唐突にそう口にした。本当に何の前触れもなく、突然だった。玄関先に立ち尽くす私は、ドアノブの冷たさを握り締めながら瞠目して彼の顔を見る。夕陽に赤く染まる空間は、嫌に生々しく影を落としていた。
昨日のことなど無理やり忘れようとしていた私には、不意打ちに近い言葉でもある。反面、彼の言葉自体をそこまで意識していなかったと言えばそうだ。相反する思考をかき集めて隠すように笑みを貼り付ける。一瞬だけ息が詰まり、僅かな怖気がうなじを撫でた。脳裏を満たす困惑を噛み殺しながら、首を傾げる。

「どうしたの、急に」
「……うん、なんと、なく」
「変なの」

笑えば、彼もつられたようにぎこちなく笑った。私の反応に合わせようと取り繕うその姿は、不自然なほど自然に出てきた。まるで切り絵のような笑みに、現実味が遠ざかる。彼は不自然さを抱えたまま、平生のように振る舞った。

「……今日は仕事、だったんだろ? お疲れさま」
「うん、でも明日はお休み」
「そう、なんだ」

そうだよ、と無意味な生返事を嘯く。その裏側では、必死に次の言葉を探している自分がいた。この時、何故こうも沈黙を恐れたのかは分からない。ただ、どこか芝居じみていた互いの態度に異様な不安を覚えたのだ。――まるで、時間そのものが作り物のように感じられる。1分1秒すら長く感じられる感覚に耐えられず、無意識に帰る理由を探している私がいた。そんな自分に気付きそうになるたびに私は逃げるように現実から目をそらす。手のひらをきつく握り締めれば、彼はふとしたように口を開いた。

「――あ、そうだ。ねえ、明日休みなんだろ? 今日はちょっとだけここで夜更かししていかない?」
「夜更かし?」
「天体観測。君に見せたいものがあるんだ」
「!」
「ダメ、かな」

既に暗くなった窓の外へと視線を向けながら、彼ははにかむように言った。藍色に滲む空は、暗がりを孕んで景色を覆う。窓から切り取られたその色と、彼の横顔を交互に見詰めた。――色彩に溢れる辺りの景色は、彼にはひどく不似合いだ。不気味なほど視界から浮いた姿に、どくりと心臓が蠢く。しかし断る理由はない。僅かに間を置いた後に、ゆっくりと頷いた。

「うん、いいよ」
「じゃあ、晩御飯の支度しなければね。僕が作るから、Kは休んでて」

背を向け、キッチンへと消える姿を目で追う。私は自身の中に発露した、得体の知れないどす黒い感情に気付かないふりをした。






天体観測しよう、なんて提案した彼は、無責任にも夕食後1時間も経たない内にソファーで眠りこけていた。

体を丸め、規則正しい呼吸音を奏でる姿はまるで子供だ。あどけなさを残す寝顔には、起きている時に見せる憂いや寂寥がない。痼りのように胸中に鎮座する感情から目をそらすように、傍らにある毛布を抱える。そして静かに彼の体に掛けてやった。さらに身を縮める姿に、おもむろに手を伸ばす。その柔らかい髪を梳きながら、目を伏せた。私より背が高く体格もしっかりしているはずの体が、何故だか幼い子供のように小さく脆いものに思えた。
――時刻は10時を回る。
静かな呼吸音が響く中で、時計の秒針を目で追った。何気なしに窓辺に寄り、外を見眺める。そこから見える河上が、星明かりを受けて錦のように揺れていた。

「不釣り合い……」

少なくとも、彼には色彩に富む世界は不釣り合いだ。穏やかな寝顔を見下ろしながら、ふとしたように思案する。彼は一体、どこから来て、どこへ行こうとしているのだろうか。素性の知れない青年に会ってから、もう1年が経つ。

ここでは彼を知る人間なんて、何処にもいない。私もそうだ。よく考えたら、彼の呼び名くらいしか知らない。
他に知っていることと言えば、彼がここに来てからのことだ。

料理が美味い。片付けが好き。人見知り。しかし彼のそれは、どこか度を超している節がある。
料理をあまりしたことがないと言っては、レシピ本を買い込んで、1週間であっという間に豊富な種類の料理を覚えた。手先が器用で、調理時の材料の分量は神経質に正確に計る。病的なまでに、彼は正しい数字≠ノこだわっていた。ただ、おかげで彼の作る料理の個人的な評価はすごく高い。

他には、何故かすぐに物を捨てたがる節がある。季節ごとに持っている物を全て買い替えた時もあった。昔の物は何1つとして残さない。記憶すら放棄するように、彼はものを捨てた。……彼は、過去の蓄積≠ノ怯えているように見えた。理由は知らない。或いはそれが、彼がここに来た理由なのかもしれない。

自分を諦め、人に怯え、過去に怯え、不完全であることを疎い、正確であることに固執する。そんな思考こそが、不完全であるだろうに。
落とした視線の先にある、冷えた床に息を吐いた。

「K……?」
「!」

不意に鼓膜を突いた声に、意識がやや強引に現実へと戻される。顔を上げ、声の方へと目を向けた。眠たそうに半眼落ちた瞼から、灰青色の瞳が覗いていた。ソファーから上体を緩慢な動作で起こした彼は、床に落ちた毛布を一瞥して再度口を開いた。

「今、何時?」
「10時半だよ」
「寝てた……」

ごめんよ、と苦笑を浮かべたNくんに、同じように苦笑で返した。床に落ちた毛布を拾いながら、彼は再度謝罪を口にする。彼の長めの髪がそのたびにふわふわと揺れて、まだ眠気が覚めない、という印象を零していた。彼は目を擦りながら、ゆっくりと言葉を続ける。

「外、行こう。天体観測」
「えええ、寒いよ」
「僕の上着貸すから」
「……」

そう言った彼により、やや強引にカーディガンを着せられる。もちろん私とNくんでは体型に多少の差はある。……とはいっても、Nくん自身は細身だ。場合によっては私より細いのではないかと思うほどでもある。

丈や袖がやたらと長いそれを身に付け、ひとまず彼の後を追って外に出た。
途端に肌に触れた外気は、澄み切った冷気を深く孕んでいた。吐き出す息が白く宙に溶け込む。

「寒い、寒い」
「確か、11時頃から4時くらいまでだったかな」
「え?」

体を反らすように頭上を見上げる彼に首を傾げる。倣って空を仰ぐと、砕いた硝子を散りばめたような星空が広がっていた。

「流れ星が見られるそうだよ」
「!」
「ちょうど昨日から、明後日くらいまで」

どこかはにかむように話した彼は、白い息を零しながら目を細める。だからこんなに天体観測にこだわっていたのか。確かに流れ星なんてめったに見ることができない。ニュースなどで流星群の情報を得なければ、夜空を見上げることもほとんどないだろう。
期待に満ちた眼差しで、彼は空を見上げていた。青の双眸が、星の瞬きを瞳に宿す。

「願いが、叶うんだろう?」
「そうだね。Nくんは何か願い事があるの?」
「ないしょ」
「また内緒なの? なんだかずるいなあ」
「ふふ」

おかしそうに笑う声が、私の指先を絡め取った。やや強引に引いていく冷えた手に、指の関節が軋む。同時に彼の背中の向こう側で、夜空が裂けた。一縷の白い軌跡を残すそれに彼は足を止める。

「願い事唱えた?」
「……見てなかった」
「あ、ほら、また」
「!」

繋いだままの手を引き、川の中へと踏み出す。足首を飲み込む冷たさに一瞬だけ体が強張った。数歩進み、空を見上げる。視界に広がる星空に、白い吐息が溶けて消えた。冷たいと呟いた彼は、指先に力を込める。次いで私の隣で空を見上げた。無邪気にも見える横顔に、僅かに心中がざわつく。彼の水面に呑まれている足首が揺れて、ゆったりと闇に溶けた。

「K」
「なに?」
「一緒に、いようね」
「!」
「ねえ、僕たちは、一緒だよね?」
「――そう、だね」
「トモダチなら、ひとりになんか、しないよね」

ずっと一緒だろ?

鎖のような冷たい指先が、手のひらをきつく締め付けた。それに反射的に私は指先の力を抜く。彼は構わずに手に力を込め続けた。足も凍り付いたように冷たかった。背骨が軋むように冷たい中で、ただ、冷ややかに空を流れる星を見た。






20110623
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -