赤ん坊が無垢なのは、その内に澱が溜まることがないからだ。
悲しみも痛みも、怒りも寂しさも、苦しみの総てを「泣き叫ぶ」という方法で瞬時に吐き出してしまう。空腹を感じれば泣き、痛みを感じれば涙で訴え、不快感を感じれば泣き叫ぶ。泣けば親が慰める。詰まるところ、負の感情による記憶が堆積しないのだ。羊水から這い出たその瞬間の精神を保ち続けている。

転じてそれは、無知であることでもある。本能的な欲求のままに感情を晒す彼らには、未だ「人」としての「心」がない。未発達のその精神は、学ぶために真っ白なのだ。ゼロの位置を与えられ、そこから時間と共に自我を得る。長い時間をかけて、「人」を知り、「社会」を知り、「感情」を殺すことを知る。そうして、己の内側に澱が溜まっていく。大人になるとはそういうことだ。
中に暗がりを抱えるということだ。自己保身の本能の肥大と、狡詐で狡猾な自分を抱えるということだ。

――では、彼はどうだろう。

白ではなく「無」を、ゼロではなく「虚」を与えられたような湖面の瞳が脳裏に浮かび上がった。





破砕音がした。
ガシャン、と、何かが崩れ落ちるような、割れるような、砕けるような、そんな音だ。砕けた破片は、触れるものすべてを裂くような鋭利さを宿している。それはまるで、他人の手によりそれ以上砕かれることを厭うているようだ。これ以上傷つきたくないと、総てを拒絶しているようだ。途方のない思索が頭の奥深くで疼く。
だって、わたしはわるくない
――足下に散らばる無数の破片と、店長の声で私は我に返った。

「Kちゃん大丈夫?」
「す、すみません」
「最近ずいぶん疲れてるみたいだけど。何かあった?」
「いえ、何も」
「そう? ……あと、この間雑貨屋で見かけたんだけど、まだあの男の子と会ってるの?」
「!」
「早く縁を切っちまいなって。止めた方が良いよ。2年前の事件は知ってるでしょう。あの子、その事件の――」

知ってる、知っている。頭の中で反芻する。2年前の事件。ある組織による曲折した思想の布教が行われ、その果てに起きたリーグでの事件。その当時はライモンシティに住んでいた。この地方での大都会だ。事件の情報は厭と言うほど耳に、記憶に、入ってきていたのだ。
――だから、彼はこの街の一部では、どうしようもなく厳しい視線を向けられている。社会はどこまでも人間に残酷に横たわる。
本人がそれに気付いているのかはわからない。ただ、知ってしまった私はその居心地の悪さに、内臓が締め付けられる思いだった。……板挟みとでも言ったらいいのだろうか。
脳裏に蘇る彼の顔に、息が苦しくなる。この街での生活と、たった1人の青年。天秤にかけたとき、どちらに傾くかなど私自身が1番よくわかっている。そんな自分に吐き気がした。

「ああ、今日は定時で上がっていいからね」
「はい。すみません……」

穏やかに向けられる言葉に胸の内が軋みをあげた。身を屈め、足下に散らばる破片を指先で集める。割れた皿は、私がこの間頼まれて買ってきたものだった。今では慣れたはずのベーカリーの仕事が、最近再びぎこちないものになりつつある。それがこの居心地の悪さによるものなのかはわからない。ただ、胸中で腐敗していく感情に、唇を噛み締めた。

――この仕事に就いたのは、Nくんと出会った頃だ。親元を離れ、この街で暮らすようになって、季節が2度巡った冬の午後だった。この街には、幼かった頃に一時期住んでいた時期がある。それから親の仕事の都合や、私の進学の関係でこの街を離れたのだ。――だから、正しくはこの街に「戻って」きた。

Nくんは不思議な人だ。

年は私と同じか、少し上にも見えるのに、そのどこか繊細で危うい雰囲気のせいか、ずっと幼い子供のようにも思える。一緒に街の中を歩いても所在なさげに景色を眺めて、疲れたように他人から顔を伏せている。まるで、親を探す迷子の子供だ。社会に馴染めていないようなその姿が、どこか痛々しかった。今にも世界に淘汰されてしまいそうな悲しそうな横顔が、ひどく体の内側に爪を立てる。
だから、自分から決して誰かに手を伸ばそうとしない彼を、放っておけなかった。私が突き放したら、きっと彼は本当に独りぼっちになってしまう。私はそれが、どうにも厭だったのだ。たとえ事件の関係者だと気付いていても。放っておきたくはなかった。それは私の良心に反した。
もちろんそれが傲りだということはわかってる。私は行っていることは自己満足だ。偽善だ。慈善活動だ。


――私は彼を、頭のどこかで見下しているのだ。






「最近、元気ないね」
「え?」

何の前触れもなく、Nくんはそう口にした。私は両手で抱えていたうさぎのぬいぐるみを、つい落としそうになり手のひらに力を込める。それがまるで首を絞めるような形になってしまった。彼はそれを見て「きっと苦しいよ」と苦く笑う。
……このうさぎのぬいぐるみは、珍しく彼が長いこと持っている物だ。潔癖症、とも取れる性質がある彼は、定期的に物を処分する。それを免れているのだから、きっと大切なものなのだろう。
手のひらからぬいぐるみを解放し、そっとテーブルの上に戻した。

「何かあったのかい?」
「やだな、何もないよ」
「でも、疲れてるだろ」
「う……ん、そうかなあ」

訝しげな視線がじっと向けられる。「僕に言えないこと?」と首を傾げる彼に、視線が泳いだ。どこか冷めた糾弾にも似たその言葉に、意味もなく動揺する。必死にそれを押し殺しながら、顔に笑みを貼り付けた。

「仕事先で、慣れたことが最近上手くいかなくて」
「仕事? え……K、働いてる、の?」
「あ、言ってなかったっけ」

働いてるよと付け足すように言葉を紡ぐ。途端に彼の瞳は、色を無くして大きくなった。深い翳りを持つ瞳孔が、光を拒絶するように暗さを増す。真冬の凍り付いた湖面。彼の瞳は、それを連想させた。

「Nくん?」
「あ……うん。何だか意外だなって、びっくりした」
「あはは」
「仕事、大変なんだね」

ベッドに腰をかけていた彼は、ゆっくりと立ち上がる。私に顔を背けるその姿に、小さな違和感が発露した。ドクリと波打つ不安を、気のせいだと意識の奥に押し込む。
足場が不安定に崩れていくような感覚に、息が詰まった。

「Nくん」
「なに?」
「Nくんは、この家以外に帰る場所とか、あるの?」
「……なに、急に」
「ううん。ちょっと、気になっただけ」
「ないしょ」
「!」
「なんて、ね」

おかしそうに笑う横顔を眺めながら、私は自分の内側に芽吹く利己的な感情を噛み殺した。自己満足。自己陶酔。偽善。それを数珠繋ぎにする執着。
私が彼に対して抱くのは、自分本位な執着心だ。
突き放されることを恐れている。拒絶されることを厭っている。無視されることを嫌悪している。何も自分のことを話してくれない彼に激しく憤っている。
だから――だけど、彼に愛されたいとは思わない。だって彼に「人」が愛せるはずないのだ。一緒にいるのは同情だ。あてがう強がりの数々は、「彼」を知らない私の意地だ。だからすぐにそう思った自分に嫌悪する。自分を責め殺す。言葉にはせずに謝る。繰り返されるのは自己満足と自己陶酔、そして自己嫌悪の輪廻だ。

私は、最低な人間だ。

「K?」
「暗くなってきたし、もう、帰るね」
「ああ、うん。――ねえ、明日は来る?」
「!」

暗く陰る瞳が向けられる。白い蛍光灯のせいだろうか。まるで作り物のように見える白い肌やその表情に、怯む自分がいた。

「明日は夕方までだから、その後にここに来る」
「疲れない?」
「え?」
「僕と、一緒にいることに疲れてない?」

言葉とは相反する穏やかな表情に、私は不可解な恐怖を覚えた。





20110612
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