眩しさが瞼を撫で、微睡んでいた意識が明るみへと引きずられた。
素肌に感じる柔らかい毛布の感触に身を縮める。体を丸め、外界を拒絶するように目を瞑れば、遠くで鳥の囀りが聞こえた。鼓膜を引っ掻くような高い音に、不安定に浮き沈みを繰り返していた意識がまた一歩、覚醒に近付く。
気怠い腕を持ち上げ、枕元にある時計を毛布の中へと引きずり込む。瞼を持ち上げると、針は9時15分を指していた。
――もう起きないと。
彼女が来てしまう。
いつの間にか癖になって抱き締めていた兎のぬいぐるみを枕元に置き、僕はようやく体を起こした。

毛布を退ければバサリと小さな風が巻き起こる。同時に傍らにある兎のぬいぐるみがコテンと倒れた。
……そういえば、昨日も思ったがこのぬいぐるみはどうしたのだっけ。無機質な目が天井を見上げている。黒いビーズを縫い付けただけの簡易な作りの瞳は、鈍く天井を反射している。
誰かにもらったような気もするのだが、拾ったような気もする。もしかしたらこの家にもとからあったのかもしれない。とにかくいつ手に入れた物なのかは覚えていないのだ。いつの間にかここにあった。しかし別段問題視するような物でもないし、ぬいぐるみはぬいぐるみだ。ただ今はここにあるのだから、所有者は僕だと思っていてもいいのだろう。

朝から無意味な思索を巡らせながら、欠伸を噛み殺す。同時にノック音が部屋に響いた。おそらくKだ。今日は彼女と買い出しにいく予定があったのに、すっかり寝坊してしまった。焦燥感から着ていたシャツを雑にベッドの上に脱ぎ捨て、ハンガーに掛けてあるワイシャツとカーディガンを身に着ける。ひとまず着替えが済んだところで、パタパタと玄関に向かった。ドアを開ければ、いつものように彼女が立っている。

「おはよう」
「ごめんよ。……少し寝坊してしまった」
「ふふ、寝癖すごい」
「!」

可笑しそうに笑うその声に、気恥ずかしくなる。右手で寝癖を直すように、適当に髪を梳いた。指を通すたびに絡まる髪に、つい焦れったさを感じてしまう。取り繕うように咳払いをし、玄関から出ようと1歩踏み出した。
しかしそれはすぐに「朝食は」と眉をひそめた彼女により、阻まれてしまった。不意打ちにも似たその言葉に、思わず目を見開く。もうこんな時間だ。今更食べようとは思っていなかったし、特に食べたいとも思わなかった。
別に「食べる」という営みを疎かにしている訳じゃない。人並みに空腹感を覚えるし、好き嫌いも多少はある。ただ、1人でいる時間が長くなってきたからだろうか。食べるタイミングなんて気まぐれで、1日にまともに1食でも取れば良い方だった。別にそれで誰が困るわけでもない。だったら、これで構わないだろう。

――それに、今の「僕」には意味がないのだ。意味がないのに、果たして生きるための営みは必要なのだろうか。そうしてまで生きていても、夢も成し遂げたいものもないのに、意味はあるのだろうか。疑問は絶えず感じている。かつての自分の存在理由がそうだとしたら、それを失った今の自分には生きている意味がない。
だから食事を疎かにするというのは、些か曲解かもしれない。だがどちらにしろ無頓着であったことに間違いはなかった。

「いつか痩せて枝みたいになっちゃうよ」
「あはは、極端過ぎるだろ」
「わからないよ」
「じゃあ、そうなったらKは僕を嫌うのかい?」
「なんでそうなるの」

ムッとしてみせる彼女に、苦笑しながら謝る。そして彼女に背中を押されながら、一度家の中に戻った。そのまま大人しくキッチンに向かい、テーブルの上にある袋から菓子パンを取り出す。封を切っては口にくわえ、靴を履きならした。
行儀が悪いと可笑しそうに笑う彼女の隣に並びながら、街に向かった。





外は思っていた以上に春めいていた。まだ風は肌が軋むように冷たいが、弱々しい日差しが少しずつ柔らかいものになってきている。風に混ざって、煙草の煙たい匂いや、焼きたてのパンの香ばしい匂いが運ばれてきた。すれ違う小さな人の波のざわついた声が耳朶を撫でる。

橋の上は、その両側を小さな店や家が連なって規則正しく並んでいる。Kは先ほど店で買った卵を右手に提げていて、左手にパンを抱えていた。卵を買った店の主人が、おまけでくれたらしい。小さな集落のような場所であるから、この街の人たち皆互いに顔見知りなのだ。
それだけに、ほんの1年前に何の前触れもなく現れた自分はここにいて良いのかと、ふと不安になる時がある。彼女が親しげに街の人たちと話している姿を見るたびに、自分だけが置いて行かれたような途方のない孤独感に襲われる。
――僕は、此処にいてもいいのだろうか。
しかし今さら帰る場所など、ありはしないのだけれど。

彼女の買い物が終わった後は、先ほど話していた通りに僕の買い物に彼女が付き合ってくれる番だった。とは言っても、もちろん女の子に荷物を持たせるのは気が引ける。品物を選んでもらうわけでもない。ただ、1人で店に入っていくことに、今さらながら気が引けたからだ。物を選ぶにしても、最終的に決めるのは自分だ。ただ、多少なりとも「こっちの方がいい」という助言をもらえた方が満足がいく買い物ができる。そう思ってのことだった。

「買い忘れはないかな」
「私は大丈夫だよ。Nくんは買わなきゃならないものいっぱいだものね。でも、荷物たくさんだから今日はこれくらいにしようよ」
「……そうだね」

――両手に抱えた荷物と、右手首にかけた袋を交互に見ながら頷く。今は帰路を辿っている最中だった。
さすがに昨日処分した分を一度に買うことは困難だ。買い足したい食器は明日で良いだろう。
そんなことを思いながら、斜め前を歩く彼女を見る。荷物を手一杯に持つ後ろ姿に、控えめに声を投げかけた。

「荷物、僕が持つよ」
「大丈夫、卵とパンだけだもの。N君こそ荷物たくさんだよ。持つの手伝うよ」
「いいよ。別に」
「でもN君細いから持つの大変そうだよ」
「大丈夫だってば」
「遠慮?」
「違うよ、僕は」

そこまで言いかけたところで、彼女の手が横から引ったくるように伸びてきた。僕が持っていた袋を掴み取り、勢い良く引く。予想外の強い力に、思わず体がよろけ、袋を離してしまった。
僕と彼女には、男女という明確な力の差があるはずなのに、まさか負けるとは思わなかった。情けないような惨めな気分になり、つい口調が辛くなる。

「返して」
「ほら、こっちの方が楽」
「K」

少しだけ、咎めるような語調で名前を呼ぶ。同時に彼女の足がピタリと止まった。ちらりと向けられる彼女の瞳が大きく瞬く。
……少し、態度が悪かっただろうか。
彼女の意外な様子に、焦燥と共についぞ罪悪感が波打った。向けられる視線に耐えきれずに顔を逸らす。しかしすぐに謝ろうと思い直し、すぐに視線を彼女に戻した。

「ごめん、でも、自分でちゃんと持つから」
「……N君は」
「!」
「優しいけど、どこかで『人』を拒絶してるよね」
「え――?」
「ううん。何でもない。はい、私の方こそごめんね」
「う、うん」

そっと差し出された袋を受け取り、思わず俯いた。彼女は表情こそ笑っているが、その言葉は全く別の感情を孕んでいる。笑顔と裏腹に、限りなく負の感情に近いものを抱いている。受け取った袋を持ち直し、キツく握り締めた。

昔からそういったモノに神経質だった。しかしこういう時、何をどう言ったらいいのか、全くわからない。昔からそんなこと誰も教えてくれなかった。ならば必要ないものだと思っていた。だから、僕は口を噤む以外の方法を知らない。
――怒らせてしまったとき、許してもらえるまで、ひたすら謝罪を繰り返し、沈黙を守るという方法以外知らない。
ドロリとした卑屈な思考が流れ込み、それをせき止めるように頭を振る。爪先を睨むように、首を擡げた。
彼女の足が僕の爪先のすぐそばまでやって来る。
ああ、顔を上げないと。彼女がきっと困ってしまう。
顔を上げて、謝ろう。きっとそうすれば許してくれる。元に戻るはずだ。喉元を押し潰すような感情に背を押され、口を開いた。

「ごめん」
「どうしたの?」
「え……あ、うん」
「ふふ、変なの。早く帰ろう。ココア入れてあげる」
「……ありがとう」

彼女が歩き出す。僕はそれを追うように、前へ踏み出した。その時見えた彼女の横顔が、心なしか沈痛な面持ちをしているように見えた。それでも僕は、かけるべき言葉など知らない。空気が重いものに感じられ、僅かに気後れする自分がいた。
落ち着きなく彼女の横顔と爪先を見る。もしかしたら、傷付けてしまっただろうか。
彼女は、不意に足を止めた。

「今度、海を見に行こうよ」
「!」

唐突に言葉が落とされた。邪気のない瞳が向けられる。一瞬言葉の意味が分からず、その貌を茫洋と眺めた。冷たい風が肌に絡みつく。彼女は止めていた足を橋の欄干へと進めた。再び立ち止まっては荷物を一度足元に下ろし、身を乗り出して下を流れている川を見下ろす。とっさに我に返り、「危ないよ」と声をかけるが彼女は小さく笑うだけだった。
――彼女の表情に、少しだけ、ゾッとした自分がいる。彼女は表情は笑っている。だが、何故かどうしようもなくそれが作り物に思えたのだ。

「海に繋がっているから」
「!」
「この川」
「ああ、うん」
「N君も、きっといつか帰るんだろうな」
「……僕はここにいるよ」

冷たい風が吹く。僕は彼女のもとまで足を運び、隣に並ぶように足を止めた。真下を流れる大河は、底無しの蒼を讃えている。この蒼は海に繋がっているのだ。地平線すら飲み込むようにそれはゆったりと流れていく。境界線が霞んだ。冷たく揺れる水面が、沈黙している。



20110315
修正:20110606
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