あなたなしでは
インターホンが鳴った。
もう寝る時間か、と時計を見上げると午後10時半だった。
お風呂に入って、歯をみがき、あとはもう寝るだけになったわたしはパジャマ姿になってベッドにねころんでいた。図書館でかりた小説が読みかけのまま枕元に広げられている。ほんとうはもうちょっとだけ読んでいたかったのだけれど、がまんする。以前なら、たとえ朝方になってもしおりをはさんだりせず最後まで読み通していたが、彼に怒られてからはやめてしまった。
本をとじ、スリッパをぱたぱたいわせながらドアへとかけよる。ひらく前に、ちょっと髪の毛のチェック。手ぐしでととのえて、ゆっくり扉をあけると、まっくらなジャバウォック島の背景の中で、わたしの待ち人が立っていた。
「今日もよろしくね、田中くん」
夜のひっそりとした空気といっしょに、田中くんのシャンプーの香りと、シャツにしみついたちょっと獣っぽいにおいが流れてくる。このにおいを落ちつくと感じるようになったのはつい最近で、皆に気づかれないよう、こっそりコテージに来てもらう彼との関係も慣れてきたところだ。こんな時間に、異性をへやにいれるなんて抵抗がある。でも、田中くんなら安心できるし、そもそも彼にはわたしの方から頼んできてもらっているのだ。
コテージに招き入れると、田中くんはわたしの全身を一瞥し、ククとのどをならして笑った。
「貴様はすっかり準備ができているようだな」
「田中くんならいいかなって」
パジャマ姿で出て来たことをからかっているのだろう。以前のわたしはもっと人前に出ても大丈夫な格好か、だらけていたとしてもジャージ姿で寝ていた。ちょっと気恥ずかしくて、つまさきに視線をおとす。
そういう彼も、ラフなTシャツ姿であらわれる。昼間は欠かさず見につけている暑そうな長い学ランやストールを脱いで、くつろいだ格好でいるのが新鮮だ。
「くりかえし儀式をおこなったことで、俺様の毒に慣れ、アストラルレベルが上がったようだな。まあ、俺様が人間のお前にレベルを合わせてやっているにすぎんが……」
「えっと、その話は今度するとして。今日もよろしくお願いします」
「よかろう! 契約を果たすとしよう!」
いうやいなや、わたしはベッドにねころんで布団をかぶった。
ぱちん、と田中くんによってへやの電気がおとされる。大きな手がのびてきて、そっと、わたしの髪に触れ、やわらかな手つきでなでていった。それはゆるやかな撫で方で、自然とわたしを眠気へいざなう。
田中くんがコテージをおとずれるのは、わたしの不眠症を治すためだ。
元々夜型人間だったのだけれど、ジャバウォック島に来てからなれない環境のせいか、夜も朝もうまく眠ることができない。普段なら、ちょっとの寝不足ですむところだが、この修学旅行では、昼間に採集作業という名の労働が待っている。寝ずにその活動をこなそうとすればたちまち体調を崩してしまうのだ。
採集作業に支障をきたさないよう、こっそりと罪木さんに睡眠薬をもらって飲んでいたのだけれど、わたしのメラトニンは増えず、逆にどんどん薬の量が増えていった。心配になった罪木さんが頼ったのは、なぜか"超高校級の飼育委員"である田中くんで、彼がなんとかしてみせると言ったのだ。
アニマルセラピーというやつだろうか。
初日、わたしはそう考えていた。たぶん罪木さんもそういうつもりで田中くんを頼ったのだと思う。彼のペットである、もふもふの毛玉みたいなハムスターたちとたわむれたら、いやされて、眠気がくることもあるかもしれない。
ただ実際夜にやって来たのは、覇王を自称するクラスメイト1人だけで。困惑するわたしを押し切って、いつも動物にやっているのだろうやさしい手つきであやし、不眠症であるはずのわたしをころんと子供のように寝かせてしまったのだった。おまけに目覚めもいい。睡眠薬じゃこうはいかない。
衝撃をうけ、朝、彼に礼をいうと、
「毎夜頼みたければ、俺様と契約を結ぶことだな。契約には代償がいるぞ……ククク、貴様に俺様を満足させるほどの代償が払えるか?」
と言う。
すっかり快眠のとりこになったわたしは二つ返事でうなずいた。代償として、田中くんの好物が献立にでたときにささげることになった。彼の血に流れているという毒からわたしを守るための結界に、多大な魔力が必要で、魔力の源が必要だという設定らしい。おかげでかぼちゃ料理がわたしの胃袋にはいることはなくなった。
眠気を誘う田中くんの手は、大きくて、筋張ってごつごつしているのに、ふしぎなほどきもちがよくて、きっと飼育される動物たちはいつもこんなふうになでられているのだと思う。髪をとかすようにうごく指は、獣の毛なみをなでるのと似ている。
褒めるとうれしそうに口をゆがませた。
「当然だ。俺様の『よーしよしよし』に敵う獣などいない」
そう豪語するのもうなずける。
獣だけじゃなく、人間も、敵う人などいないのではないだろうか。
ちょっと悔しいな、と思う。一度くらいは抗ってみたいものだ。でも、どんどん意識は沈んでいって、うとうとと、わたしは舟をこぎはじめてしまう。
「もう寝ちゃいそうかも」
つぶやいた声はもうねむそうにとろけている
田中くんは満足そうに、
「この俺様に抵抗しようなど、無駄なことは考えるなよ? 貴様はただ睡魔に身を任せていればいいのだ」
「うん……」
観念して目をつむると、まぶたが重くてもうひらかなかった。もう寝るんだなあとわかる。その間も、ずっと田中くんの手が頭をなでてくれていて、それがゆっくりとわたしの呼吸のリズムと重なって、あたりまえになる。なでるのが本当にうまい。わたしひとりが広い無重力の空間にいて、ぷかりぷかりと浮いているようなきもちよさだ。
もう不眠は治っているはずなのだけれど、田中くんの手がきもちよくって、やめられそうにないな。
当分はカボチャは食べられない。
ま、それもいいか。
無意識のうちに、わたしは、なでる手にほおをすりよせていた。さっきまでは抗おうとしていたくせに、もう陥落している。よわっちい意思だ。
すると、田中くんの動きが、ぴたととまった。
心地よいリズムがくずれて、あれ、と思うけれど、わたしのまぶたは貝のようにぴったりとじてしまっているから様子がわからない。意識もうつらうつらで、夢の世界に半身が浸かっている。
と、また彼の手が、わたしをなではじめた。
頭をなでていた手は移動して、耳のうしろをかすかにくすぐる。ちょっとこそばゆい。首を指先がつたっていく感覚。あごの下を、猫をあやすときのようになでられて、きもちがいい。いつのまにか、包帯をまいていない方の手もふれているけれど、毒がまわったりしないんだろうか。青白い肌から、想像できないほど、あったかい彼の体温がふれたほおから伝わって、体がぽかぽかしてくる。今夜は、頭以外も撫でてくれるんだなあ、と思う。
「みょうじ……」
田中くんの声がいつもより近くからきこえる。わたしに向けて、なにか言っているみたいだけど、つづきはききとれなかった。なにか返事しないと。わたしはふにゃふにゃの意識で、とくに考えず思いついたことを口走った。
「わたし、ね」
「?」
「田中くんじゃなきゃ、満足できない体になっちゃった、かも……」
ああ、もう、限界だ。わたしの意識はそこで途絶え、こてん、と眠りにおちた。
その夜、真っ赤な顔をした田中くんがコテージから飛びでていく姿が目撃されたときいて、わたしは首を傾げることになるのだった。