君は深海魚に似てる


「図書館に行くんだ」
 私がそう言うと、日向は不可解そうにたずねてきた。
「何をしに?」
 思わず、私は笑ってしまった。図書館に行くといえば、自動的に本を読むのだとわかっても良さそうだけれど。あるいは勉強をするとか。よほど、私と図書館を結びつけることがむずかしかったらしい。つい漏れでた苦笑に、失言を悟った日向は、申し訳なさそうに頭を掻いた。
 みょうじが読書するなんて意外だったんだ、と言うそのイメージは間違っておらず、私は本というものに小学生の時分読んだきりふれてこなかった。
「田中がさ」
「田中?」
「そう、図書館に行きたいんだって」
 今度こそ、日向は納得したようになるほどと頷いた。それこそ私には不可解だった。いつからか、田中と私はペアで考えられるようになっていた。
 このところ毎日、自由時間に田中と過ごしている。採集作業が終わったあとや休みの日に田中とどこかへ出かけるのがお決まりだった。場所はさまざまで、映画館であったり、お互いのコテージであったり、牧場に牛を見にいったりした。特に目的も決めずふらふらと島を歩き回ることもあった。それが今日はたまたま図書館だったというだけだ。
 特別田中と親しいわけではなかった。いつから出かけるようになったのか、私の頼りない脳みそでは正確に思い出すことはできない。いつの間にか。ある日。気付かぬうちに……これらの表現が、私にはしっくりきた。本人にさえわかっていないのだから、本人たち以外の他人からしてみると、それはよりいっそうだった。2人でいるのを見るとボタンをかけ違えたシャツのような違和感がある、と誰かに言われたとき、私は上手い喩えだと感心したことがある。
「なんか意外だよな。お前らが一緒にいるとかさ。共通点もないし、いちばん性格あわなさそうな2人だと思ってたんだけどな」
「私は今でもそう思ってるけど。つまんないし」
「おいおい、ひどいな」
「同じことを田中も考えてるみたいだけどね。この間、面と向かって言われたもん」
 貴様といても退屈だ、と例の独特な口調でその時の彼は言った。とても何か理解し合えないようなことがあって、言い合いになったあと顔を背けながら吐かれた台詞だった。日向は少し考えたあと、真面目な顔つきになって訊いてきた。
「なんでお前ら一緒にいるんだ?」
 さあね、と肩をすくめた。実のところ私がそれを1番知りたいのだ。
 約束の時間。いつものように待ち合わせ場所のジャバウォック公園に行くと、すでに田中が待っていた。南国の背景に彼は全然似合っていやしなかった。だからといって、どういう景色がうしろにあれば、タトゥーとカラコンをつけた同級生に似合うのかは、わからないけれど。彼は、いきなり「遅い」と一言浴びせると、返事も待たずに歩きだしてしまった。ため息をついて後を追っていく。彼と歩くとき、私はいつも立ち位置に困る。適切な距離感がわからないのだ。彼がうしろからついてきたり、たまに横に並んだりもしたけど、しっくり来ない。どちらにせよ会話を交わすことはなかった。共通の話題をもっていないからだ。才能も全然ちがう。風に揺れる黒い学ランの裾に黙ってついていく。海のさざめきが時折耳に届く。
 ジャバウォック島の図書館は、無人島のものとは思えないほど蔵書量が多く、立派な設備だった。絵本も、漫画も、ビートルズとかの古いCDもおいてある。
 私は常夏の島を歩いてきたので汗をかいていて、冷房のきいた室内でぐったりと椅子にもたれると、座りワイシャツの襟もとをパタパタあおいだ。田中は首元にうっすら浮いた汗を気にすることなく、右側の本棚を物色しはじめる。
「何読むの?」
 見せてくれた表紙のタイトルは読めなかった。英語だったからだ。かろうじて動物関連の専門書であることがわかるその本をひらくと、田中は席に持ちかえり、私のことなど放って本を読み始めた。私は退屈と一緒に取り残されてしまった。
 彼が不思議だ。読書をして何が楽しいのか、私にはわからない。
 私は終里さんについていけばよかったなと今更ながら後悔をしていた。スポーツ選手の才能をもつ同士仲がよく、元々知り合いだったことも相まって、彼女は私と親しくしてくれる。きっと彼女なら、今の私に同情してくれるはずだ。
 図書館に来たんだからきっと本を読むべきなんだろう。
 しかたなく本棚を見てまわることにした。本棚は、ぐるりと部屋を囲うように端に並べられていて、まるで本でできた壁みたいだ。人差し指で色とりどりの背表紙をなぞりながら読めそうな本を探す。田中が借りるような文字ばかりのむずかしそうな本ばかりだ。そういう専門書はいやだし、かといって小説や漫画はもっと好きではなかった。物語といったような曖昧なものはどうにも苦手だ。曖昧なものよりはっきりしたものの方が私に合っていると思う。形があって、明快なもの。走ったときにストップウォッチが出すタイムとか。
『海のいきもの図鑑』という背表紙の上で指がぴたりととまった。図鑑なら、文字が少ないし写真がたくさんあるし、私でも寝ずに読めるかもしれない。それを手に取る。中をのぞいてみようとしたら、ページ同士がぺたりとはりついていて、ぱた、といきなり後半のページを出してしまった。深海のいきものというページに飛び、なかなかにグロテスクな見た目をした深海魚の写真がでてくる。ゾンビみたいな容姿のやつだ。その章には深海魚の生態についてかかれてあった。ひかりが少ししか届かない200m以下の世界の奇妙ないきものたちは、私が知っているマグロとかサバとかいう魚たちとは見た目が全然ちがっている。ふーん目が見えない魚もいるんだ。自分で光ったりもするんだ。動物が好きってわけじゃないけど、深海魚のそういう媚びてない生き方は、ちょっとだけ私の心を惹いた。
「貴様も昏き海底世界に魅入られたか」
 深海は宇宙よりも謎が多いのだ、という書き出しにへえと思っていると田中がめずらしそうに手元をのぞいてきた。
「ちょっとだけ、興味はあるかな」
「面白いぞ。まあ、俺様もまだ足を踏み入れたことはないが……」
 なんでも謎というものは人間の好奇心をやすやすと煽る。人間はわけがわからないもの、想像の及ばないものに惹かれる習性があるのかもしれない。
  田中が写真のひとつを指さして、言った。
「貴様に似ているな」
  ひどい悪口のように思えた。しかしすべての動物を愛している田中にとってはそのつもりがないのは明らかだ。
「チョウチンアンコウに似てるなんて少なくとも女の子に言う台詞ではないよね」
 他の女の子に言ってしまわないよう、私は丁寧に指摘した。
「何故だ?」
 田中は意外そうな顔をしている。
 私は首をふって、またひとつページをすすめた。文字は読んでおらず、写真を眺めながら田中の言葉を頭の中だけで反芻する。
 深海魚は田中の方が似ていると思う。
 田中眼蛇夢という同級生の男は未知の存在だ。言動も、考え方も。私とはまるで違っている。だから不思議。私にとっての、深海。
 彼は私が深海魚に興味を抱いていることが嬉しいのか、たのんでもいないのに解説をはじめてしまい、発光器の形、歯の本数にいたるまで、しっかり説明してくれた。しかしながら私には前衛的な子守唄くらいにしかならない。静かな図書館の空気も手伝って、私の意識はどんどんと沈んでいった。
 気がつくと寝てしまっていた。目が覚めたとき、オレンジ色の光がさしこんでいて、部屋をあたたかく染めていた。田中はまた別の本を読みふけっている。
「ねえ、外行こうよ」
 私は提案し、田中も本を閉じて立ち上がった。
 外に出て、橋をわたる。顔をなでる海風が気持ちいい。
 夕日をうけて濃い影のできた橋が、公園の銅像まで一直線にのびていて、まるで競技のコースみたいだ。私の体が、足が、うずうずする。本能が「走れ!」と叫ぶ。今度は私が好きなことをする番だった。
「待て!」
 焦ったように田中が叫んだけれど、その時にはもう彼の声はかなり後方からきこえていた。
 走ると、生きているって感じがする。
 じっとしていた分、動くと気持ちがいい。
 かかとから踏みこむ。ひざのばねを使い、次の足をだす。足は地面を蹴り、砂を散らした。スニーカーの紐がおどる。スカートのうしろがぶわっと風をはらんでふくらんだ。ふりかえってみると追いかけてくる田中の影が遠くで怒鳴っている。割と体格の良い、スポーツでもしたらいいのにと思う田中だけれど、素早さはそうでもない。まあ、誰にせよ、超高校級の私に足でかなう人間なんていないと思うけれど。
「急に走るな!」
「あはは、おそいよ」
 砂浜のまんなかでとまった。スニーカーとくつ下をぬぐと、そのまま私はざぶざぶと海に入る。気持ちがよかったので、そのままぱしゃん、とあおむけに浮かんでみた。夕日が眩しい。髪の毛がクラゲのひらひらしたところみたいに波にただよう。息を切らした田中がようやく追いついて、突然海に飛びこんだ私に、理解しがたいと言いたげに鼻をならした。
「何をしている」
「田中も入りなよ。気持ちがいいよ」
 はやく、と急かすと、しぶしぶ上着とストールなどの邪魔になりそうなものを脱いでいく。それをたたんで脇に置き、田中は海に入ってきた。私はその彼の腕をえいっとひっぱった。前のめりに倒れ、海にダイブする。横でぱしゃんと大きくしぶきがたった。私はそのしぶきを思いきり被る。
「貴様……」
 まとめた髪がばらばらになった田中は手でそれをかきあげ、毛先から水を滴らせていた。つ、と水が首すじをたどっていく。彼は頭も服もびちゃびちゃだ。海水を被って、私はもっとびちゃびちゃだ。
「地獄の底に叩き落すぞ、みょうじ!」
 怒気をにじませて呼ばれた名前。私は声をあげて笑った。
 田中は、奇妙なものを見る目で私を見た。それはちょうど私が図書館で田中に向けていたものと同じ種類の視線だった。わかんないんだろうなあ、と思う。私の好きなこと、なんでわかってくれないんだろうなあ。走ることも泳ぐこともこんなに楽しいのに。わかってくれないからイライラする。多分、田中も図書館で同じことを考えていたんだろう。水を滴らせながら彼は私の顔をのぞきこんだ。薄い影がかかる。頬にぽたりと前髪からつたってきた水滴がおちてきてつめたい。
「貴様と過ごすのを日々後悔する」
 かしこそうな白い額に、私も、と唇だけでささやいた。
 一緒にいても全然つまらない。思い通りにいかないから、イライラさせられる。全然生き方がちがうから理解不能で、振り回されるから、いつもいつも、なんで一緒にいるんだろうって後悔する。でも私たちは一緒にいる。いつも。多分、明日も。
「みょうじ?」
 なんで一緒にいるんだろう。
 なんで一緒にいたいんだろう。
 どうしてこんなに、この人に惹かれるんだろう。私は手を伸ばす。田中の頬は硬くて、私のものとは全然ちがっている。
「ねえ、明日はどこ行こっか」
 正反対で、趣味も好みもまるで合わないからこそ逆に興味を惹かれる。どうしてそういう考えになるのかが知りたい。そのかしこそうな額の下で、何を思い何を考えて、あなたは生きているんだろう。
「貴様の好きなようにしたらいいだろう」
 彼はまた鼻をならした。
「また、後悔しちゃうかもよ」
「お互い様だ」
 起きあがろうとすると彼は手を貸してくれた。帰るときはやっぱり距離感がわからなくて、私たちの長い影は揺れて、くっついたり離れたりを砂浜の上でくり返した。裸足で歩く。濡れた砂が、足の下でざく、ざくと音がなる。
 夕日に目を細めながら、明日からのことを思った。
 明日もまた一緒にいる理由を探しつづけるのだろう。灯りをともし真暗い深海を泳ぐ奇妙な形をした深海魚のように、その問いの中で、私たちは彷徨いつづける。
「あ、行きたいところ思いついた」
「どこだ?」
「遊園地。ジェットコースター乗ろうよ」
 いくら毎日をくり返したって、絶対に理解し合えないってことはわかっている。私たちを結びつけるのは、得体の知れない相手への底のない好奇心だけだ。
 私は、この感情を恋と呼ぶことにした。



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