最悪。


 母は幼い私にある2つの言葉を授けた。
 ひとつ目の言葉は、恋は女を強くする、というもの。もうひとつは、あなたには人を好きになる才能がある、という予言めいた囁き。それらの言葉たちははっきり言ってまだ小さな少女には呪いでしかなく、かえってこんな女になるものかと私に決意させるまでに至ったが、無駄だった。予言通りに、私は恋多き女になっていた。
 私は、他人の長所を見つけるのがとてもうまかった。どれだけひどい性格の人間でも褒めるべきところは絶対にあって、嫌われ者の偏屈な生物科の教師や、14歳の誕生日に夫と一人娘をおいて家から出ていった母親のいっそ愛らしいほどの孤独さも私だけが知っていた。
 私は、この才能のことを『人を見る目』があると呼ぶことにしている。
 その才能を使って誰かを好きになり、特別好きになった人に想いを告げて恋を成就させるというのが私のやり方だった。でも最近はうまくいかない。
「なんでふられたんだろーね」
 きのう、隣のクラスの男子に告白したらふられてしまった。そのことを伝えるとうしろの席の友達がそう言った。
 高校に入学してから1か月が経とうとしているのに新しい教室にはまだ慣れない。新しい教室、新しい友達。教室というひとつの容れ物にみんながまだ収まりきれていない感じがした。次生物かよーなんて叫ぶクラスの男子が教科書を用意するのを後目に、新しくできたばかりの友達は、真剣な面持ちでまつげにビューラーをかけている。
「好きな人がいるらしいよ」
 窓の外の桜を見ながら私は答えた。2階の窓からはぞっとするほどうつくしい桜がよく見える。
「ふーん。で、誰?」
 私は、ほんの少しの間黙って、言った。
「舞園さやか」
 学校一の美少女は名前までもがかわいらしい。学生ながらにアイドルをしている彼女は、みんなが認める人気者だ。この高校にも信奉者は多い。
「さやかちゃんかー。勝ち目ないねえ」
 手鏡から目線を外さないまま友達はマスカラをつけはじめる。いつからさやかちゃんと呼ぶほど親しい間柄になったのだろう。
「でもおかしくない?」
「何が?」
「ずっと私、ふられた相手に言われてるんだもん。『舞園さんが好きだから付き合えない』って」
 中学のある頃から、告白した相手が全員、舞園さやかの名前を出すようになった。最初は偶然だと思っていた。だって彼女はとてもかわいらしくて良い子だし、男子も女子もみんなが彼女のことを好きになってもおかしくはない。でも流石に偶然では済ませられない数になってくると何かが変だと思うようになった。理由はわからないけれど、ひょっとすると舞園さやかが裏から手を回しているのではないか。そんな考えを友達は一笑した。さやかちゃんがそんなことするわけないじゃんという風に。私はため息をついた。あの女の本性を知らないからそんなことが言えるのだ。彼女のことが嫌いなわけじゃない。だけど、嫌悪なんかよりももっと複雑な感情をもう何年も抱き続けている。


 根黒六中、通称『六中』。制服のかわいさだけで選んだその学校で、初めて舞園さやかと出会った。しかしあちらはテレビの向こう側の人。またたく間に学校中の人気者になった彼女には親衛隊が護衛のごとくついていたし、ずっと違うクラスだったこともあって私には関わる機会はなかった。
 それでも、廊下ですれちがったとき、とりまきたちの隙間から、一瞬だけのぞいた彼女の姿は私の記憶によく焼きついている。
 とても綺麗な女の子だった。小さい顔に華奢なからだ。指通りのよさそうな髪は春の小川のようにさらさら流れていて、つい触ってみたくなる。セーラー服からのぞく動物の足あとのような鎖骨のくぼみ。常に薄く微笑むピンク色の唇が紡ぐ言葉はどれも優しく、毒など欠片もなさそうだった。テレビ画面で見るときとなんら変わらない完璧な女の子がそこに佇んでいた。もし彼女のことを嫌いだと言う人がいるならそれは妬みだろう。当然のように学校中の誰も彼もが彼女を好きになったし、私もその一人だった。ただちょっと違ったのは、彼女に対して畏怖のようなものをぼんやりと胸の内に抱いていたことだ。
 彼女がアイドルとして身を置く芸能界という世界がとても厳しいものであることぐらいは私にもわかっている。ほんの少しのミスでも鬼の首をとったように叩かれる世界だ。その芸能界の頂点にとてつもなく近い位置に彼女は同い年という若さながらに立っているというのは本当にすごいことだと思う。でも、まだ十四、五歳というそんな若さで、弱肉強食の世界をひとりで渡り歩いていける力を持っているということが、単純に恐ろしいものに感じたのだ。天才、と一言で片づけるにはもったいない。もちろん周囲の助けもあったに違いないが、彼女自身がそれこそ血が全身から滲むほどの努力を積み重ねてきたはずだ。夕方の歌番組で、笑顔で歌う彼女を見るたびに、そんなことを考えては畏怖の念にうたれていた。
 私の『人を見る目』が本物ならば、舞園さやかには、目的のためならなんでもやりかねない危うさみたいなものがある。なんでもっていうのは、本当になんでも。
 そういうことを誰かに話して共感してほしかったのだけれど、妬みだと笑われるのがオチなので口にはしなかった。話した結果は想像に難くない。
「考えすぎだよ」
「さやかちゃんがすごいのは夢のためにがんばろうっていう健気さからで、あなたがが考えるような怖い部分なんて彼女にはひとつもないよ」
 学校にたくさんいる彼女の信奉者たちはみんな舞園さやかの味方をするはずで、多分彼女が目の前で殺人を犯したとしても信じる人はいないんじゃないかと思う。死体が勝手に出来上がった、と本気で証言しかねない。そういうところがまた私にうすら寒さを感じさせていた。世間では、さやかちゃんは猫みたいだね、なんて言われているらしいが、私の脳内にはいつも豹が浮かんだ。それも、とても獰猛で賢い豹。私は絶対にほだされないぞ、と誰に言うでもなく決意していた。頑なに舞園さやかとフルネームで呼んでしまうのもそういう警戒心がさせるのかもしれない。

 それなのにどうしてか舞園さやかと関わりを持ってしまった。それもお互いが予期しておらず望んでもいないかたちで。

 中学3年。冬の朝だった。今日中に提出しなくてはならないノートを家に忘れてしまった私は、家までとりにいこうとしていた。もうすぐ始業のチャイムが鳴る。1時間目はあきらめていた。上履きをぱたぱたと慣らしながら階段をかけおりていくと、くつ箱で舞園さやかの姿を見かけた。めずらしくとりまきもおらず一人だった。もうそろそろ1時間目が始まるから誰もいないと思っていたので、私はびっくりした。彼女は白い封筒を持っていた。ラブレターだ、と直感的にわかる。学校のそれもくつ箱で手紙なんてそのくらいしか思いつかない。
 彼女は長い睫毛で、伏目がちにその封筒を見つめていたかと思うと校舎の方へと歩いてきた。思わず、私は隠れてしまった。教室へと戻るのかと思っていたら華奢な足は廊下の、ごみ箱の方へと向かっていった。
 彼女はラブレターに手をかけたかと思うと思いきり破いた。
「え」
 うつくしい指が、細かく、細かく手紙をちぎっていく。白い欠片がぱらぱらと雪のように落ちていく。その顔には情がいっさい浮かんでいない。ただ決められた作業をこなすかのようにセーラー服のカフスからのびた手に躊躇いはなかった。私はその様子を呆気にとられて眺めていた。なんで、どうして。息がとまる。空気のゆらぎを敏感に察知したらしい彼女がふりむいた。目が合う。ばっちりと、まるで私たちの間に1本の糸が張ったようにまっすぐに視線が交わった。顔がこわばるのがわかる。彼女はおどろいていたが、やがてにこっと微笑んだ。気がつくと私は一直線に階段をかけあがり、あがってすぐの空き教室まで逃げこんでいた。
「最悪」
 心臓に根を張る血管ひとつひとつが音を鳴らしているかのように胸がうるさい。
「最悪、最悪最悪最悪さいあく……」
 ラブレターを破っていたという行為そのものは最早どうでもいい。見てしまった。見ていたことが彼女にバレてしまった。何をされるのかわかったものではない。私の口を封じるためなら、それこそなんでもするだろう。私は今のことを誰かに話すつもりなんて毛頭なかったけれど、言ったとして、到底信じてもらえない。教室のドアに背をつけて息をはく。無意味な呼吸を繰り返す。
 勇気をふりしぼり、もう一度階段をおりると彼女はもうそこにはいなかった。幽霊のように消えていた。緑色の廊下におかれた大きなごみ箱の中をのぞくと、汚らしいごみの中に混じって、花びらのような、びりびりに破かれた細かい紙くずがあるだけだった。
 もちろんあの日の話は誰にも話さなかったし、彼女から何か直接的に行動を起こしてくるということもなかった。
 でも、あの頃からだ。告白するたびに舞園さやかの名前を聞くようになったのは。偶然だとは思えない。私が好きになった相手に告白する前にアプローチをかけているのかもしれない。彼女にとって、誰かを好きにさせることは容易いことなのだ。

 彼女とは高校も一緒になった。やっぱり高校でも彼女の名前を聞くことは変わらない。友達に話してみても信じてもらえなかったけれど私は確信を持っている。確かめるため、私は誰にも好きな人をしゃべらないようになった。どこからか情報が漏れていると思ったからだ。友達にさえ今は好きな人がいないのとごまかしていた。密かな恋はそれはそれはうまくいった。次に告白した時に彼女の名前は聞かなかったのだ。やはりと確証を得た。でも、新しくできた彼氏に舞園さやかが好きになったから別れて欲しいと言ってふられたとき、私の中で何か大事な糸がぷつんと切れた音がした。感性をつかさどる琴線。『人を見る目』に必要な誰かを好きになるための大事な器官。そういうものが。だから何にも響かない。私は恋をやめた。そして、あの名前を聞くことももうなくなった。


 灰色の雲から、梅雨らしく陰鬱な雨がひっきりなしに降っている。外がそんなせいで、教室の白い蛍光灯は気味の悪いほど明るい。ざあと雨粒がアスファルトを叩く音がしめきられた窓の外から聞こえる以外は静かだ。桜はとうに散ってしまい、その屍は汚らしく地面を汚した。
 結局、どうして彼女が私の恋の邪魔をしたのから分からずじまいだった。冬にくつ箱で偶然見てしまったことへの意趣返しだろうか。それにしたってもっとやり方はあったはずだしどうにも回りくどい。他に目的があったのだろうか。
 ぷしゅ、と私は自販機で買ってきたファンタの缶のプルタブを開ける。友達の委員会活動が終わるまで教室で待つことになっていた。
 教室のドアが開く音がした。ふり向くと、彼女が立っていた。呼吸が一瞬止まった。
「こんにちは」
 雨音なんかよりもずっと透明な声。缶を持ったまま「こんにちは」と返したとき、不思議なことに彼女と話すのはこれが初めてだったことに気がついた。彼女は礼儀正しくお辞儀をした。人形の動きみたいだった。
「1年C組の舞園さやかです」
 彼女はそう自己紹介をした。背景には薄暗い廊下がある。
「A組のみょうじなまえです」
「ここ座ってもいいですか?」
 私の前の席を指さす。私が許可を出すのはおかしかったがとりあえず、どうぞ、と言った。わざわざいすを回転させて、彼女は向き合うようにそこに腰かけた。目の前に舞園さやかがいる。近くで見るとますます彼女はきれいで、きめ細やかな肌からは毛穴なんてひとつも感じられない。テレビで観るのとあまりに同じなので画面と向き合っている気分になる。机の上においていたコンビニで買ったお菓子を見て、彼女はあっとうれしそうに声をはずませた。
「あ、これ新作のお菓子ですよね。CM見てからおいしそうだなーって思ってて」
「食べたら?」
「いいんですか? ありがとうございます」
 ポッキーが小さな口に吸い込まれていく。お菓子と同じピンク色の唇は雨をのせたようなうるうるしている。この時期っていちご味ばっかり出ますよね、とたわいのない話題がふられる。
 どうして舞園さやかがここに?
 つい周囲を見回したのは助けを求めたかったからで、でも誰もいない。何か決定的な一手を打たれた気がした。学校に残らなきゃよかったなんて今更後悔しても遅い。この狭い教室に追いつめられた感じがした。
「もう帰るね。お菓子は食べちゃっていいから」
 席を立とうとすると、みょうじさん、と透明な声で呼ばれた。たった一声で射すくめられる。物静かな声であるというのに同時に逃れようもない強制力があった。逃げ場を失った。
「みょうじさん、座ってください」
 半分浮いた腰がいすにつく。
「一体どういうつもりなの」
「どういうつもりなんておかしなことを言うんですね。ただ私はみょうじさんとお話したいだけなんです」
「私と?」
「はい。みょうじさんとは中学から同じでしたよね。ずっと、お話ししてみたいなって思っていたんです」
 どうして今更私に会おうなんて思ったのだろう。意図がまるで掴めない。ただ、彼女がここにいるのはただの偶然ではないということだけはわかる。何か明確な意図を持って、彼女はいすに座っているのだ。
「舞園さんは人気者なのに、目立たない私なんかのことも知っているんだね」
「もちろん知っていますよ」
 もちろん、という言葉の重みに私は気づかぬ振りをする。
「ほら、みょうじさんって中学生の時からモテモテでしたから。あなたのことが好きって言っているクラスメイトは何人もいましたし」
 そんなことはない。少なくとも彼女よりは。
「別に……」
 居心地の悪さをごまかすように口をつけたジュースは炭酸が舌の上で踊るけれど全然味がしない。
「あ、そういえば」
 彼女の目が私をとらえている。あの日みたいに。
「あのラブレターのこと、おぼえていますか?」
 穏やかに、でもしっかりと切り出された話題はまるで用意された台本のようだった。
「覚えてるよ」
 嫌な予感がする。
「よかった。あの日の誤解をといておきたかったんです」
 胸が波打つ。
「私が持っていたあのラブレター、あなたのくつ箱に入っていたものだったんですよ」
 呼吸がつまった。
 わかっていた。冬のくつ箱で彼女が破いていたラブレターは私宛てだった。あのあと、無性に気になってごみ箱からびりびりに破かれた紙くずを拾いあつめ、家に帰ってから丁寧にテープでひっつけてみると、クラスメイトの男子の名前が記されていることがわかった。それからみょうじなまえという私の名も。おかしいと思っていた。だって、彼女がいたのは私のクラスのくつ箱だった。彼女のクラスのくつ箱は何列も向こう側にあった。でもどうして。彼女が私宛の手紙を破っていたのかずっと理由はわからずじまいだった。
「どうして」
 彼女はその質問を待っていたかのように微笑んだ。その時私は、今までのことの全て、今この瞬間のための布石だったのだと直感的に理解した。好きな人間がことごとく彼女にとられていったのも。それらは彼女にとって目的ではなく、手段だったのだ。彼女は自身がそう言ったように本当に私とここで話すことが目的だったのだ。そんな確信があった。嫌な予感に背中を汗がつたう。
「私ね、好きな人がいるんです」
 彼女は、まばたきの音さえも聞こえてきそうな距離まで顔を近づけてきた。
「あなただけに教えてあげる」
 私は、今この瞬間、この世で一番うつくしいものを見た。紅潮した頬にうるんだ瞳。小さく開いた密やかな唇のかたち。その表情は甘いのにそれでいてナイフのように鋭い。彼女はそうっと耳元で囁いた。
『 』
 缶が私の手から滑り落ちた。鋭い音をだして机の角にあたり、紫色の飛沫をちらして、缶の中身が私へと振りかかる。飛沫になったジュースは、私のセーラー服とピンク色のリボンを汚して色を濃くさせた。缶はそのまま床に転がり落ちると、私たちの間へと転がり、彼女のつま先にあたって止まった。横向きに倒れたそれは黙って紫色の液体を口からは吐き続けた。グレープの甘酸っぱいにおいがたちこめる。ジュースは机の下をあっという間にぬらしていった。まっ白な、彼女の上履きに紫色がしみこんだが、全然意に介さずにっこりと微笑むだけだった。
「お返事楽しみにしてますね」
 入ったときと同じく軽やかな歩き方で、彼女は教室から出て行った。教室には彼女の残り香がかすかにのこっていて、それがグレープと炭酸のにおいがまざり、毒のように私の体を侵して動けない。残り香が形になった彼女の腕が首に巻きつき、また耳元で囁く。
『あなたが好き』
 負けだ。彼女の告白をきいたとき自然と頭の中で浮かんだ言葉だった。私は負けた。
 今まで恋は多くしてきた。男も女もたくさんの人間を好きになってきた。でも、好きにさせられた(・・・・・)のは生まれて初めてのことだった。うつくしい顔と、うつくしい告白が脳に焼き付いて離れない。一瞬で心を奪われてしまった。駄目だった。長らく、舞園さやかのことしか考えていないのが証拠だ。こんな刃物を隠しもっていたなんて思わなかった。彼女は、告白という鋭い刃物を背中に隠していて、いつ私に刺すかをずっと見計らっていたのだ。それが今日だった。今日が一番ちょうどよかったのだ。私の無防備な心に、つきたてた。

 翌朝、教室に入ると私の席の周りに人だかりができていた。嫌な予感がして帰ろうとした私を、みょうじさんっという鈴のような声が引き止める。私の席で私を待っていた舞園さやかは恥ずかしそうに目を伏せながら、あなたとお話したくて朝から来ちゃいました、と言う。これから先、彼女の名前は聞かなくなるのだろうけど、代わりに彼女から逃れることはできなくなった。勝ち目がないね、という友達の台詞が頭をよぎる。気がつけば私はため息と一緒に、考えつく限りの悪態を、それから心境を最も的確に表す言葉を、口から吐き出していた。




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