ロンリーフラワー


 希望ヶ峰学園敷地内の片隅には小さな植物園がある。東地区、生物科棟、校庭の端にある少し小さな円筒状の建物。その植物園は校舎の影にかくれるように存在し、ひっそりとしていて、建物の周囲だけ別世界のように静まりかえっている。
 そこが、わたしに与えられている温室植物園だ。
 わたしは、しゃがみっぱなしで痛む背中をぐっと伸ばした。そしてガラス張りになったドーム状の天井をみあげたとき、ちょうどどこか遠くで午後5時の鐘が鳴った。もう夕方なんだと初めて気がつく。花の世話をしていたらこんな時間になってしまった。
 植物園の中には、パンジー、ネモフィラ、ヒヤシンスにチューリップなど、かわいい春の花たちが、花壇に植えられて可憐に咲いている。その花たちが我が子のように愛おしく、ついつい植物園に長居してしまうのは悪い癖だった。
 さっさと寮に帰ろう。
 スコップを片づけ、ゴミをバケツに。それからわすれないうちに研究日誌に今日の研究を書く。すべての作業が全ておわった頃には、天井から見える空は暗く星がまたたく時刻になっていた。ぼーっとしながら出口をあけ、わたしは悲鳴をあげた。
「ぎゃっ」
 女子力もへったくれもない悲鳴をわたしに出させたのは、ドアの真ん前に立っているひとりの男だった。まさか人がいるとは思わず、わたしは全身を硬直させておどろいた。
 その男の容貌はかなり怪しい。ガタイがよく、高身長で、180cmは越えているだろうか。左右でちがう色をした目はするどく、見下ろされると圧迫感がある。当然ながらまったく知らない人だった。
 わたしは、びっくりしすぎてぱちぱちと瞬きをくりかえすしかできないでいる。なぜか男の方でもおどろいたような顔をして、しばし、わたしの顔を見つめていた。奇妙な間。
「ようやく現れたか……」
 男はふと我に返り、口元に不敵な笑みを浮かべる。そして紫色の長いストールをなびかせると、まるで怨敵と出会ったかのようにこう言いはなった。
「”超高校級の植物学者”、みょうじなまえとは貴様のことかッ!」
 まさしくわたしの名前、肩書である。
 政府の定めたギフテッド制度により、わたしは"超高校級の植物学者"としてこの希望ヶ峰学園に通っていて、校庭に、研究室が付属したこの植物園が無償で与えられていた。超高校級の生徒は、それぞれがネットで専用スレがたつほど有名だから、名前を知られていること自体は問題ない。でもそれはそれとして、知らない人にいきなり名前を呼ばれるとこわいというものだ。
 不審者かもしれない。いつでも扉に逃げ込めるように後ずさりしつつ訊ねる。
「あ、あの、どちら様ですか……?」
「ククク、俺様の名を知りたいか?」
「え、あっ、はい……」
「良いだろう。俺様は”超高校級の飼育委員”、田中眼蛇夢。いずれはこの世の全てを手に入れる男だ!」
 いろいろつっこみたいことはあったけれど、まずは超高校級という単語におどろく。そして、気崩しすぎてわからなかったが、彼は希望ヶ峰の制服を着ているではないか。つまりはわたしと同じく希望ヶ峰の生徒ということだ。
 超高校級の飼育委員の肩書にはおぼえがあった。新入生の名簿を眺めたとき、見かけたような気がする。そしてわたしの植物園の隣に大きな飼育小屋が建ったのだが、その飼育委員が使うのだと、今朝学園長から通知が届いたばかりだった。
 新入生。つまり後輩ではないか。ほっと胸をなでおろす。
「な、なんだ、77期生の子かあ。不審者かと思ったよ……」
「俺様が不審者、だと……」
 なぜかショックを受けているみたいだけれども、いまだ不審な人物であるのは変わりない。さっきから妙な言い回しばかりで、何を言っているのかわからないからだ。どうやら変な人に絡まれてしまったらしい。
「ドアを開けたらいきなり目の前に立っていたんだから、ふつうにびっくりするよ。ノックをすれば入ってきてもよかったのに」
「結界をはっていただろう」
「結界? って、ああ、立ち入り禁止テープ……」
「さすがの俺様といえど、今の弱体化した仮の姿では、貴様の強固な結界を破ることは難しかったのでな」
 外はもう真っ暗だ。ひょっとして、放課後からずっとドアの前で待ちかまえていたのだろうか。よほど大事な用があるのかもしれない。
「貴様は草属性の魔法を操れるらしいな」
 ゲームの話だろうか、とわたしは首をかしげる。
「ま、魔法? なんのこと?」
「しらばっくれるな!すでに調べはついている!」
「ひいっ」
 こわいから大きな声を出さないでほしい。後ずさった拍子に肘がぶつかり、うしろで扉がカタンと鳴る。
「しかしその強大な力を持つ故、”奴”に狙われるのも時間の問題だろう……。だが案ずるな!この冥界の覇王こと田中眼蛇夢がいる限り下界を好きにはさせん!貴様と俺様の力が合わされば”奴”を倒すことも容易い」
 彼はひとりで納得し、どんどん話を進めていく。知らない人が知らない単語を使って知らない話をしている。まるで異国の言語を聞いたときのような困惑だけがわたしにとどいていた。
「奴?何?こ、こわいんだけど……」
「俺様がいる限り恐れる必要などはない!しかし離れていては守ることはできん。これから先、貴様は俺様の傍にいろ!」
 すみません。何を言っているかわかりません。
 ぱちぱちと瞬きをくりかえす。わたしは大きな困惑におそわれていた。
「えっ?ええっ?傍にいろって、どういう……」
「これは決定事項だ!俺様の傍から離れるな!」
 一歩間違えれば告白のような台詞。でもまさかこの覇気で告白などとあるわけがないし。
 何なの、この人……!
 おかしな人に絡まれてしまった。
「は、はい……わかりましたぁっ……」
 本当は断るべきだったとわかってる。でもこわいから仕方ない。情けないわたしは威圧感に負けて、というか恐怖一心で、うなずいてしまうのだった。


 少し、わたしの植物学者としての才能について説明したい。
 何事もはじまりはほんの小さなことなのだと思う。わたしの才能が発芽したきっかけも、小さな出来事がはじまりだった。
 小学1年生の夏。誰もがやったことがあるだろうアサガオの観察で、何の前触れもなくわたしの才能は現れた。みんなと同じ種をまいたはずだったのだが、わたしの鉢だけアサガオがすくすくと成長し、大輪の花が咲き、それはもう異様なほどツルが伸びて、最早別の植物に見間違えるほどに大きく育ったのである。誰かに褒められたわけではなく、むしろ異常事態だと当時はさわがれたのだが、恐らくはそこでわたしは自分の才能に勘づいたのだろう。それ以来、草花を育てることに情熱をそそぐことになる。楽しさを見出したわたしは、家庭で育てられる植物は、農作物も含めてほとんどを育て尽くしてきた。
 最初は、ただ育てるだけで十分だったのだが、次第に物足りなさを感じ始め、研究にシフトした。ついに中学生の時に、夏休みの自由研究の宿題で品種改良に手を出した。その時に金色のバラを生み出した。賞をもらったこともある。
 けれども、わたしが"超高校級"に選ばれたのはアサガオが大きく育ったからでも、賞をもらったからでもない。
 わたしは生まれつき植物の気持ちがわかるのだ。
 植物は寡黙にみえて、案外と色々なことを考える。それは嘘もいつわりもないまじりけのない子供のような感情だ。楽しい、心地よい、疲れている、愉快、不愉快、物足りなさそう、つらい、満足そう、気持ちが良い……。そういう気持ちがわかるから、わたしは、彼らにとっていちばん心地のよいことをしてあげられる。きちんと世話をすれば、植物たちはすくすく育ってくれるから、わたしは植物を育てることに関しては得意だった。そこには信頼がある。心が通じ合うとはこういうことを言うのだろう。だから、わたしは草花が好きだ。1日中植物園にこもっていられるくらいには。
 希望ヶ峰学園に来てからは、植物園の手入れをしつつ、品種改良の研究をつづけている。

 そして、先日現れた田中眼蛇夢という妙な後輩は、わたしのこの才能についてよく知っていた。ネットで見たか、あるいは他の生徒から聞いたのだろう。彼は魔法だと思い込んでいるようだけれども。わたしに声をかけたのは、彼も、動物の声が聞こえる人だからだ。

 田中くんはあの日以来毎日のように植物園にやって来るようになった。傍にいろと言うわりに、来るのはいつも彼の方だ。
 正直にいって、どうしていいのかわからない。それにわたしは人と喋るのは苦手で、慣れていないから、おどおどしてしまう。特に田中くんは何を言ってるかわからなくてちょっとこわい。


 放課後のチャイムが鳴ってしばらくした後、植物園の戸からノック音が聞こえ、田中くんが入ってくる。教室からそのまままっすぐ来たのだろう、彼は学校カバンを持ったままだった。水やりをしていたわたしはジョウロをおいて彼を出迎えた。
「ククク、やはりここは魔力に満ちているな」
「マイナスイオンなら出てるかもしれないけど……」
 植物園には簡素なベンチが置いてあり、わたしたちはいつもベンチに少し距離をあけてすわる。なぜなら田中くんの血には毒が回っており、人間が近づくとたちまちその影響を受けてしまうからだ。
 ベンチに座り、ぽつぽつと会話をかわす。わたしは口下手だから、たいてい喋るのは田中くんだ。飼育している動物たちの話、魔界で暮らしていたときの話など、色々とわたしに聞かせる。
 たまに、わたしが研究結果を話して聞かせることもあった。
 これは初めて気がついたのだけれど、研究結果を誰かに語るのは、ひとりでこつこつ日誌に書きつづるよりもうんと楽しい。田中くんは生物学に詳しいこともあって、共通の話題が多いことも要因だと思う。植物科学の知識も少しあるようで、いちいち用語の意味を説明しなくても、すんなりと理解してくれるのがありがたい。
 15分くらいたつと、田中くんは動物たちの世話があるからと去っていく。
 最初はビクビクしていたはずのわたしだが、彼がいなくなるとそれはそれで寂しいというか、ひっそりとした植物園に、寂寥感を感じてしまう。今日はうまくお話できただろうか、と会話をふりかえりながら土をいじるのだ。
 田中キングダムという飼育小屋に招待されたこともある。飼育小屋にはたくさんの動物がいて、わたしが見たことのない妙な動物もいたが、大半はかわいい子たちだった。一番ふわふわだったのは、破壊神暗黒四天王というハムスターだ。夏には、育てたひまわりの種を彼らにあげた。

 そうして過ごすうち、わたしは田中くんのことが少しずつ理解できるようになってきた。
 いわゆる中二病なだけで、害意があるわけではないこととか。初対面の時は、"奴"のことや物騒な話を聞かされてびっくりしたけれど、わたしに悪意があってわざとああ言ったわけではないみたいだ。基本的に田中くんは優しい。どうして田中くんがわたしに構うのかは謎だし、覇王語は難しくていまだにおどおどしてしまうけれど、最初よりは慣れてきたように思う。時折、隣の飼育小屋からかしましいニワトリの鳴き声が聞こえ、ぎょっとさせられること以外はまったくもって不満はない。
 わたしは、いつの間にか田中くんが来るのを心待ちにしていた。


「日向創っていうんだ。よろしくな」
 植物園に、田中くん以外では初めてのお客さんがあらわれた。田中くんのお友達で、予備学科の生徒らしい。めずらしそうに植物園内をきょろきょろと見回している。
 わたしは落ち着かずソワソワとしてしまう。田中くんには慣れたけど、やっぱり人は苦手だ。
「なあ、みょうじ先輩。この花って……」
「ひ、ひえ、先輩!? わたしのことなんか先輩呼びしなくてもいいのに……」
 そういえばわたしは彼らの先輩だった。田中くんが上から目線すぎて忘れていた。
「みょうじよ。なぜ怯える必要がある。貴様は仮にも我々より1つ学年が上なのだから、もっと堂々としろ」
 だったらもう少し田中くんにも後輩らしくしてほしいものだけれど。まあ、わたしの威厳がないのは元からなので今更だが。
「なあ田中。ひょっとしてみょうじ先輩も特異点ってやつなのか?」
「特異点ってなにそれ?」
「田中に触れられる特別な存在、みたいなものかな。俺もこの間ようやく認めてもらえたんだよな」
「へえ……」
 初耳である。毒云々の設定はきいたことがあるけれど。
「実は今から田中の飼育小屋を見せてもらうことになってるんだ」
「田中キングダム、だ。二度と間違えるな」
「ああ、うん。もうそれでいいぞ……」
 仲が良さそうな男子2人の背を見送る。
 田中くん、わたし以外に友達いたんだ。


 今日も田中くんは元気だなあ。
 植物園に入ってきた途端、くわっと目力を強めて、「何故貴様と学舎で出くわさぬのだ!」と土いじりに夢中になっていたわたしに怒っている。
「俺様が入学して何か月経ったと思っている! ハッ、まさか優れたステルス魔法の操り手がこの学園に潜んでいるのか!それとも貴様はこのドームに封じ込められているというのか!」
 わたしと学校で会わないことを言っているのだろう。彼と会うのはいつもこの植物園で、学校の廊下ですれちがったことはない。でもそれは当たり前のことなのだ。
「当然だよ。わたし、学校に行ってないから……」
「なん、だと……」
 希望ヶ峰学園は、普通の高校とちがって単位を必要としていない。定期的な成果をあげ、実技試験にさえ合格すればいさせてもらえる。わたしは植物園にこもりきりで、授業の類には一切出ていない。授業をうけないのであれば教室に行く理由もなく、わたしの行動範囲はかなり狭い。
「だから、ステルス魔法の操り手さんは、この学校にはいないと思うよ」
「なぜ学校へ行かない?」
「なぜって……」
 わたしは口ごもる。
 研究をしたい、という理由もあるのだけど。
「学校に行け。でないと、めっ! だぞ」
 どうして後輩に動物みたいな叱られ方されてるんだろう、とちょっとがっくりする。
「そういう田中くんはちゃんと授業うけてるの?学校にテロリストが来た時の妄想に夢中で、先生の話を聞いてないんじゃない?」
「ハッ!氷の覇王と呼ばれる俺様が、テロリストごときに手を焼くわけもないだろう!」
「そういう話じゃないんだけど」
 まあ、日向くんという友達がいるということは、ちゃんと学校に通っている証拠でもあるんだろう。
 彼はふと真剣な顔つきになって、
「貴様と会うのはいつも黄昏の刻だ。昼にも話がしたい」
 と目を見つめながら言ってきた。ちょっとどきりとする。
「まあ……いいけど。田中くんがそう言うなら」
 照れ隠しに横髪をもてあそびながそう答えた。こんな変人でも馴染めているならわたしだって大丈夫だ、たぶん。


 久々に着る制服は居心地が悪かった。
「大丈夫、だよね?」
 いつもは土で汚れてもいいように作業服だから、スカートが気恥ずかしく、めくれていないかどうかお尻の方を手で確認してしまう。あまりに挙動不審な動きなので、廊下を歩いていてもわたしは二度見されていた。
 わたしは今日、それはもう大きな勇気をふりしぼり、学校へとやって来たのである。もちろん田中くんとの約束を果たすためだ。まず準備に5時間かかった。そのために午前3時に起床しなくてはならなかった。制服にアイロンをかけたり、歯を磨いたりシャワーを浴びたりで忙しかったのだ。あとは髪型を鏡の前で念入りにチェックするのに1時間。クラスメイトとばったり出会った時の挨拶と、そのあとのスムーズな会話パターンを千通り考えるのに数時間をかけたからである。
 そんなこんなで教室の前までついたはいいものの、わたしは、入りたくないなあ、と扉の前で足踏みしてしまっていた。
 教室。視線。……少し嫌なことを思い出してしまう。
 教室にいる生徒は、わたしのように出席していない人がいるのか人数が少なかったが、それでも何人かいる。そうっとドアのすきまからのぞいてみるけど、それ以上足は進まない。ほぼ初対面の他人と、どういう話をすればいいんだろう。すでにせっかく考えた千通りの会話は、緊張のあまり登校中に忘れてしまっていた。そもそもわたしの席はどこなのだろう。人見知りをこじらせすぎて、身動きがとれないでいる。

 とりあえず一旦逃げることにする。
 やっぱり帰ろうかな、と教室から離れてと角をまがったところで、廊下の向こうに田中くんを見つけた。友達と一緒みたいだから声をかけるのはよそうと思ったのに、向こうも気がついたようで、友達をおいて大股でかけよってきた。
「おはようございます!!」
「ひっ、お、おはよ」
 うれしそうに大声をださないでください。90度におじぎするものだから周囲の注目を集めてしまっている。
「田中くん、しーっ、だからね。あんまり大きい声出さないでよ」
「はい!」
「聞いてないね……」
 これはテンションが上がっているということなのかもしれない。どことなく目がわくわくしている気がする。落ち着かないのはわたしも同じだけれど。
「約束通りちゃんと登校したよ。久々に制服を着たら、なんだか慣れないや」
 やっぱり、めくれあがっていないかどうか、裾のほうを気にしてしまうのはやめられない。学生がみんなこれくらい短いスカートを履いて普通に登校していると思うと、すなおに尊敬する。脚がでていると気がひきしまるようだ。
 田中くんはわたしの全身を一瞥すると、ストールで口元を隠しながら褒めてくれた。
「に、似合っていると、思います……」
「えっと、ありがとうね」
 ぎこちない会話をしていると、向こうから声がして、派手な服装の人がやって来た。
「俺を置いて何を女子と喋ってんだー!」
 ツナギに、ピンク色の髪をした特徴的な人。さっきまで田中くんと一緒にいた人だから、友達なのだろう。
「あ、あわ……」
 まずい、不良だ!派手な色の髪に、ピアスだから間違いない。田中くんは不良さんと友達なのか……。日向くんという常識人との差にかなり驚く。思わず田中くんの頼もしい背の後ろにかくれてしまった。
「えっ、なんで隠れるんすか……!」
「クク……手懐けるにはレベルが足りなかったようだな、左右田よ」
「うっせお前には聞いてねー!」
 随分仲が良いみたいだ。じわり、と嫌な感情が首をもたげる。日向くんが植物園に来た時にも感じたもの。
 と、急に話題がわたしに振られる。
「みょうじ先輩ですよね!」
「そう、だけど。なんで知ってるの……?」
 田中くんと初めて会った時とデジャブだ。まさか、また魔法がどうこうと言うんじゃないかと身構えていると、左右田くんという不良さんは意外な発言をする。
「田中が一方的に引っ付いてるって、うちのクラスじゃ有名なんで」
「え……?」
「ぶっちゃけ付き合ってるんすか?」
「ん?えっ?」
「貴様ぁ! 戯言ごとを抜かすと破壊神暗黒四天王が牙をむくぞ!」
 混乱に包まれているとまた新しい人影が。別の方向からやって来て輪に加わった。
「お前ら、廊下でなに騒いでやがんだ」
「あ、九頭龍」
 九頭龍。
 噂にうとい私でもさすがに聞いたことがあった。九頭龍組のトップで"超高校級の極道"の人。新入生名簿で見かけて以来、平穏な学園生活のためになるべく近寄らないようにしようと決めていたのに。
 ただでさえ不登校から復帰したてなのに、いきなり不良と極道に会ってしまうなんて、神さまは意地悪すぎないだろうか。
「ほーう。これが例のか」
 九頭龍くんは興味深そうにわたしの顔をのぞきこんだ。
 それだけで緊張が限界突破しそうだったけれど、わたしはまた別の理由で慌てていた。久々の他人との会話で頭がパンクしそうだ。
 それに、みんなの視線が集中してる。廊下をすれ違っていく人たちも、九頭龍くんがいるからか、ちらちらとこちらを意識しているのがわかる。
 まずい、と思ったときにはすでに膝が震えていた。手汗がすごい。嫌な記憶がフラッシュバックする。
「す、すみません……!」
 叫ぶようにそう言って、わたしは廊下を走った。
 背中にかけられる焦ったような声にも、わたしは足を止めることはない。


 久しぶりに全力疾走をしたから、ひどく息がきれてしまった。それに、トラウマを掘り返したからだ。足を止めた私は、膝に手をつきぜぇぜぇと息を整えようとする。
 わたしは植物園にいた。居場所なんて植物があるところにしかない。今も昔も。ずっとこもっていたからか植物園はおちつく。
「あはは。まるでわたしまで植物になったみたい」
 自分を励ますために慣れない冗談をついたつもりだったけれども、あまり冗談らしくならなかった。わたしに人間は向いてない。多分だけど、光合成をさせてくれるなら人間をしているよりきっと上手くやれる。
 ベンチにすわり、ガラス天井を見上げる。
 逃げてしまった。
 田中くんにもお友達にもすごく失礼なことをしちゃった、と今更後悔しても遅くて、分かるのはもうとりかえしのつかないという事実だけだ。
 やっぱり人がいるところは無理だ。
 わたしは人がこわい。いやな過去を思い出すから。だから今まで学校に行かなかった。いや、行けなかったのだ。田中くんや、日向くんというイレギュラーで少しは人に慣れただろうと高を括っていたけれど、無理だった。
 自分が情けない。
 ようやく荒い息が整いかけてきたとき、植物園の外でひとり分の足音がした。わたしの心には緊張と、期待がよぎる。足音はどんどん近づいてきて、扉がひらかれ、飛びこんできたのは田中くんだった。
「みょうじ……」
「田中、くん」
 追いかけてきてくれたんだ。
 胸がじんわり温かくなる。そういうずるい自分が好きではない。
「あの……俺様が何かしてしまったでしょうか……」
 田中くんがおそるおそる、というふうにたずねてくるので、あわてて首をふった。
「ち、ちがうの。悪いのはわたしだから。お友達の2人にはちゃんとわたしから謝らせて……」
 彼は、いつものように隣に座ってきた。普段よりちょっと距離が近い気がする。
 始業のチャイムが鳴った。
 田中くんがベンチから立ち上がる気配はない。サボらせてしまった。チャイムの余韻が植物園にじぃんと残っている。
「やっぱり、わたし、学校はやめておくね」
 前髪が俯いた顔に影をおとした。
「何故だ?やはり先程……」
「そうじゃないよ。やっぱり向き不向きって、あるじゃない?わたしには向いてないなーって、それだけだよ」
 つとめて明るく言う。うまく笑えていればいいなと思う。
 学校へ行くのはやめだ。
 こんなんじゃ、学校生活なんて無理だろう。さっきみたいに変なところを見せてしまうし。
 そしてもうひとつやめなきゃいけないことがある。
「田中くん、もうここには来ないで」
 息を呑むのがわかった。彼の表情が硬直した。立ち上がろうとすると腕をつかまれる。
「ちょっと、離して……」
「理由を聞かせろ。それまでは離さん」
 有無を言わせぬ口調。つかんでくる手はわたしの腕を強くおさえていて、本当に、離すつもりはないのだろうとわかる。あきらめてわたしは口を開いた。
「嫌われたくないんだよ……」
 吐息みたいなものが口から漏れた。呼吸をすると、自分の中の、嫌なところまで外にあふれてしまいそうだ。
「私ね。植物の声が聞こえるって言ったら、いじめられたことがあるの。それで、人が苦手なの」
 昔、わたしは明るい女の子だった。
 今みたいにおどおどしなかったし、話す時に肩に力が入ることもなかった。もちろん人がこわいなんて考えたこともなかった。
 小学生のときに育てたアサガオ。わたしの鉢だけ異様に大きく育ったアサガオ。どうしてこんなに育てるのがうまいの、とたずねられて、植物の声が聞こえるからその通りに育てたんだよと言ったら、クラスメイトたちは、不気味なものを見る目になった。その時に自分はおかしいんだと悟ったのだ。
 今でも、クラスメイトたちが不気味がるように距離をおいてわたしを取り囲む、あの教室を思い出すと足が震える。
 その日から、わたしの友達は草花だけになった。周りは腫れ物扱うみたいだったし、自分もあえて誰かに付き合おうとは思わなかった。そしてどんどん塞ぎ込んでいった。
 わたしはひとりだった。
 ずっとわたしはひとりでいたから、田中くんが植物園に現れて、強引にでも構ってくれたことが、本当は嬉しかった。
 だからこそ、田中くんだけには嫌われたくない。
 今日のことでよくわかった。
 左右田くんや九頭龍くんと楽しげに会話をする田中くんを見て、わたしは気後れした。日向くんが来た時にも感じた、いやな嫉妬の感情が、体の内側をぐるぐると巡っていった。
 わたしは、田中くんも一緒なんじゃないかって勝手に仲間意識をいだいていたんだ。わたしたちには人じゃない何かと喋れるという共通点がある。彼は動物、わたしは植物と。だから、孤独感を共有できるんじゃないかと思っていた。
 田中くんに、わたし以外の友達がいると知って、とても嫉妬した。悲しかったし、勝手に裏切られたような気持ちになってしまった。
 すごく身勝手で、わがままな独りよがりの願いだ。こんな感情を知られたら田中くんに嫌われてしまう、と思った。
「嫌われる前に、私から突き放して、うやむやにするなんてことが逃げだってことはわかってるよ。でも、こわいんだ。田中くんにたくさん友達ができていつか離れていっちゃうのがこわい」
 わたしは切羽詰まったように口走る。
 人は裏切る。言葉を喋る生き物はいつか裏切る。植物みたいにまっすぐじゃない。本当の気持ちなんてわからない。昔「植物の気持ちがわかるなんてすごいじゃん」と言ってくれた友達も、みんなすぐに気味悪がって離れていった。
 何より、彼が離れていく瞬間を見たくないのだ。
 教室のあの視線。友達が、あなたとはもう喋りたくないと言ったときの、困ったような、異物を見るあの顔。
「俺様は離れない」
 田中くんは断言した。わたしは目じりに熱がたまっていくのを感じながら、彼を凝視した。
「どうしてそんなこと言いきれるの……?」
 すると彼は、片頬を歪ませ、いつかのように不敵に笑った。そんな彼を見上げる。天井から入る朝日が後光のように照らしている。
「忘れたか!貴様に傍にいろと命令したのは誰だったか!」
 田中くんだ。
 突然植物園に現れて、こもりきりなわたしのまわりに新しい風を吹かせた。変わらない日常からその手で引き上げてくれた。
「覇王であるこの田中眼蛇夢が、一度言ったことを覆す時が来ると思うのか! 男に二言はない! 貴様は俺様の傍にいろ!」
「……本当、強引だなあ」
 困ったみたいに眉を下げたけど、本当は、わたしはいつものように心のどこかではすごくすごく嬉しくて。
「人の気持ちがわからないから、こわいんだ。植物のことはよくわかるのに」
 でもそれじゃいけないんだ、って思う。
 学校に行くことはまだ無理でも、ちょっとずつ、ちょっとずつ。田中くんに慣れていったように少しずつ歩んでいく。あなたの世界にわたしも入れてほしい。もうひとりぼっちは嫌だ。
 何よりも、彼を信じたかった。
「……でもね、わたし、田中くんのこともわからないよ。どうしてわたしなんかに構ってくれるの?」
 思えば、最初から強引だった。いきなり来ては傍にいろと言ったり。愛想が良いとはいえないわたしに飽きずに仲良くしてくれたり、友達を紹介してくれたり。なんだか、申し訳なくなるくらい、良くしてもらっている。わたしはあなたに何一つ与えていないのに。
「それは、その……」
 堂々とした態度はどこへやら、田中くんは急にまごつきはじめた。
「えっと……あの……す……」
「す?」
「好きだから、です……」
 え、とこぼれた声が段々納得にそまっていく。
 傍にいろって言ったのは、もしかして最初から。一歩間違えたら告白のようだとは考えたけど、本当に告白のつもりで?
 顔が熱くなるのがわかる。きっと田中くんの顔も赤い。ふたり黙って足元を見つめた。花壇に白い小さな花が咲いている。
「ねえさわってもいいかな」
「え」
「わたしも、田中くんの特異点になりたいの」
 となりに座る彼の手をとった。
 気の弱いわたしにしては、とても大胆な行動だった。田中くんの手は想像していたとおり大きくて、ごつごつしていて、温かかった。この手が動物たちを撫でているんだな。もっと勇気をだして、ぎゅっと握ってみる。毒がまわっているはずの彼の手は全然わたしを傷つけたりはせず、膝の上で、緊張と驚きで固まるのみだった。
 急にしおらしくなって。さっきはあんなに格好良かったのに。なんだかとても愛おしい気持ちがわいてくる。
「特異点に、なってもいい?」
 なぞるようにわたしはたずねた。
 田中くんはゆっくり、かすかに頷く。そして、前から触れたいと思っていたとぽつりとひどく小さな声で呟いた。
 わたしのこと、前から特異点だって認めていてくれたのかな。だとしたら嬉しい。わたしは涙顔に、できるかぎりの笑顔をうかべた。
「頼りない先輩でごめんね。これからも一緒にいてくれる?」
 顔を真っ赤にして、彼はまた頷いた。
 たとえ気持ちがよめなくても、表情で、嘘じゃないとわかる。
 この日、わたしはひとりじゃなくなった。



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