運命論


 雨の日のバスは、独特なにおいで満ちていて少し面白い。
 雨と、濡れた制服と、誰かが噛んでいるミントガム。それらが混ざりあってあまりいいにおいとは言えないけれど、俺はこういう朝はほんの少し好きだ。

 今日はすごい大雨だった。俺のスニーカーもバス停にたどりつくまでにびしょびしょになり、靴下までしみてしまった。傘を閉じ、バスに乗りこむと車内には同じ学校の生徒たちが多く乗っていた。イヤホンで音楽を聞いていたり、読書していたり、何もせずぼーっと風景を眺めていたり、木曜日の英語の小テストにそなえて単語帳を持参している人もいて思い思いに通学時間をつぶしている。それらの人の間をぬいながら俺は前の方に移動して、バスの発車とともに、吊革のひとつを握った。すぐ近くの席には、同じ学年の女の子が座っている。
 みょうじさんだ。文庫本をひらいて静かに文字を目で追っている。
 彼女は、いわゆる大人しいタイプの女子で、もし同じクラスにいても俺とは絶対に関わらないだろう類の子だった。黒縁の眼鏡。紺色のカーディガン。他の女子みたいにスカートを短くしていないのが逆に新鮮だった。ピンも、ワックスすらもつけていない黒髪はさらさらしていて清潔な感じがする。
 実のところ、俺は、みょうじさんとは喋ったことはない。いや、正確には1回だけあるか。委員会で一緒になったときに俺から話しかけたのだった。
 「みょうじさん、この資料なんすけど……」
 俺がファイルを手に、みょうじさんの顔をのぞきこんだ途端、彼女は肩をびくっと揺らしたかと思うと、慌てて廊下にいた友達の元までばたばたと逃げるようにいってしまった。
 おそらく彼女の中には、『ピアス+派手髪=不良』という方程式ができあがっており、その式によると天海蘭太郎という男は不良に属すると脳が解答を出したのだろう。俺はというと、そういう反応には慣れていた。むしろいきなり話しかけて悪いことをしたなと思う。こんなチャラチャラした見た目の奴に急に話しかけられたら彼女みたいな子は驚いて警戒してもおかしくない。実際俺を見て軽薄な男だと勘違いする人は多かった。周りからもそういう扱いを受けているというか役割を押し付けられている気さえする。実際には俺は一途だし、真面目なところだってあるのだが。
 そんなことを思い出しながら、スマホを操作して、イヤホンから流れていたJ-POPのやたら愛を歌う男性ミュージシャンの歌声を消した。
 俺は吊革から手を離し、リュックを体の前にぐいとひっぱって、読もうと思って持ってきていた文庫本をとりだす。もう何度も読んでいるのでページには少し跡がついている。しおりをはさんだベージを親指でひらく。
 その動作の途中でだった。持っていた傘が手から離れ、みょうじさんの方に倒れた。
 「あっ、すみません」
 当然ながら、濡れた傘を腕にあてられた彼女は、注意散漫さをとがめるようにきゅっと眉をひそめた。しかしすぐに何かに気づいたような表情へと変えた。
 「あ」
 思わず、反射的にといった様子でみょうじさんが小さく声をだす。
 彼女は、眼鏡の奥の目をまるく見ひらいてこちらを凝視している。以前のように、俺に話しかけられてびっくりしたという表情ではなさそうだった。理由は、彼女の視線をたどればわかった。それで俺も、ああ、と納得したような声を出してみせた。
 みょうじさんと本と、俺の本が同じものだったのだ。その本はxxという名前の何十年か前に活躍していた海外作家の短編集で、つい最近古本屋で手に入れたものだった。著者については海外ではそれなりに評価されているようだが残念ながら日本では無名で、まず名前を聞いたことのある人の方が少ないだろう。俺もこれを読むまでは存在すら知らなかった。
 つまり、どういうことかというと、俺たち2人が同じ日に、同じバスで、全く名の知られていないこの短編集を読んでいる確率なんて奇跡に等しいということだった。
 みょうじさんが喜んでいるように見えるのは俺の勘違いじゃないだろう。偶然を喜ぶように、俺はにっこりと笑いかける。彼女もなんだか意識をしているようで、バスが止まるまで、ちらちらと俺の方をうかがっていた。
 「奇遇っすね。同じ本を持ってたなんて」
 だから俺はバス停に降りたときに自然と声をかけることができていた。ぞろぞろと学生たちが学校へと向かう傘の群れの中、そっと彼女の横に並ぶ。
 「ほんとに」
 冬の朝。灰色の空の下で、青い雨傘をさしながらみょうじさんはしみじみと頷いた。まだこの偶然をちゃんと信じきれていない様子だ。今度は彼女は逃げなかった。戸惑っているふうではあったけれど、ちゃんと俺と話そうとする意思が見えた。
 「ええと、天海くんだよね」
 「はい。合ってるっす」
 「委員会で会ったことがあるよね。あの時はごめんなさい。その、びっくりしちゃって」
 それが重大な罪か何かのように彼女は謝る。俺は気にしないでという意味を込めて両手を広げてみせた。
 「大丈夫っすよ。正直、よくあるんで」
 みょうじさんはおかしそうに破顔する。
 「よくあるんだ?」
 そのまま話しかけた流れで一緒に登校することになった。雨粒が傘をたたく音が強い。声が届きとりづらいので自然と近くに寄る。
 「天海くんはxxの本が好きなの?」
 小さい彼女の声は雨音で掻き消えてしまいそうだ。
 「いや、実は初めて読んだんですけど、でも面白かったっすよ」
 「どの話が好きとか、ある?」
 「そうっすね、表題作も勿論いいんですけど、俺的には2番目の話が展開が読めなくて結構好きっすね」
 バス停から学校へと向かう道のりの間に、俺は感想を語った。通しで3回も読んだのですらすらと感想がでてくる。その内容が彼女は気に入ったのか、校舎にたどりつくころにはすっかり俺への警戒心をといていた。
 「私、あの作家の本がすごく好きなんだ」
 下駄箱につくと、真っ青な傘を閉じた彼女は、眼鏡のレンズについた雨粒を気にしているような仕草をしながらふりかえった。そしてやや早口でこう言った。
 「もしよかったら、オススメの本を今度貸してあげよっか」
 ぜひと俺は二つ返事で言う。彼女はうれしそうに顔をほころばせると、じゃあまた今度というふうに会釈をして廊下に歩いていった。そこから先はとんとん拍子に事は進んだ。本を貸し借りする仲になり、友人となり、やがては恋人同士になった。あの本の偶然がなければここまで親しくなることはなかっただろう。全てはバスでの出来事がきっかけだった。彼女は時折、思い出したようにあの雨の日の話をする。特に、ベッドから出るのをためらうほど寒い冬の朝に。
 「あの本を読んでいる人に初めて出会ったんだ」
 当時よりいくらか分厚くなった眼鏡をかけなおしながら彼女は言う。
 「だから、蘭太郎くんと出会ったことは奇跡だと思うの」
 それに頷きながらも、奇跡なんていくらでも作れるのにな、と俺は思う。
 みょうじさんがあの本がすごく好きなこと、雨の日は自転車通学からバス通学に変わること、それから通学中によく読書をしていることさえ知っていれば、偶然を装って、ずっと気になっていた彼女とのきっかけを作ることなんて簡単にできた。
 でも俺はこのことはずっと黙っているつもりでいる。
 「運命的っすよね、ほんと」
 たとえ俺が作った運命だとしても、俺にとっては彼女が運命なのだ。もちろん彼女にとっても。
 「運命か。蘭太郎くんはロマンチストだね」
 「はは、それはどうっすかね」
 君が思っている以上に、俺は打算的な男なのだ。そう言うと、彼女は透明なレンズの奥で、不思議そうにまばたきをくり返した。



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -