きっとこの場所こそが、彼の一番来たかった場所なんだと思う。だって彼は、小さな頃からこの景色に憧れていたから。この世界で当たり前の光景も前の私たちにとっては夢のような光景だった。
ああ、やっと一緒に見れたね。

「きれいだね」

今日は晴れてはいなかったけれど、かえって晴れていなくてよかったのかもしれない。空は厚い雲に覆われていて前のような太陽は見えそうにもない。もし晴れていたら、私は泣いてしまっていたかもしれない。どうしてかは分からないけれど、なんとなくそう思う、きっと私は涙を流してエレンを困らせてしまっていたと思う。

「これが、海か」

ぽつりと呟かれた彼の言葉は波の音に溶けていった。何を思っているのか、その表情は感動して言葉を失ったようにも見えるし、呆然としているようにも見える。
行っては帰ってくる波が面白くて近づいてみる。どうして波ができるんだろう、なんて疑問は足を海面につけた瞬間に飛んでいった。

「うわ、冷たい」

「まだ寒いんだから、風邪ひくなよ」

海を目前にして彼はずいぶんと冷静だった。もっと憧れの海にはしゃぐのかと思っていた私は少し拍子抜けしたけれど、返事をしてすぐに海面から足を出した。優しく笑う彼を見て、やっぱり変わったなあと私は思うのだ。

「なんかエレン、優しくなったね」

「なんだよ、俺はもともと優しいだろ」

「ええ、なんだろう。なんか、雰囲気が変わったというか」

この変化は言葉に表せそうにもない。そんな私のあやふやな言葉にも、彼はまた優しく笑うのだ。


この旅は、とても悲しくて、優しかった。でも、それもきっともうそろそろ終わりを迎えるのだろう。寂しいけど、どこかで嬉しくも感じた。エレンにとっても、いい旅になっていればいいなと思う。

「こんな綺麗な地平線、前は見えなかったからね」

「そうだな、今はしっかり見える」

「すごい不思議、この世界は丸いはずなのに」

遠く遠く、ずっと遠くまで海が広がっているのだろうとは思うけど、こんなにも地平線は真っ直ぐにあるのに、地球が丸いだなんて誰が言ったのだろう。不思議で仕方がない。天と地の境目である地平線はどんなに近づこうと奥へ進んでも近づけなくて、もどかしい。

「地平線に、触れられたらいいのに」

「なんだ、変なこと言うんだな」

「エレンはそう思わないの」

「俺は海に会えたからいいよ」

海に会えた、という彼の言い方もずいぶん変だと思う。海を見る、じゃなくて海に会う。変だと思うのに、何故だかその言い方はすぐに私も気に入っていた。海に会う、彼がどれだけ海に憧れていたかが分かるような言い回しが私は好きだなと思った。

「今こうして俺は生きてる。お前も生きてる。この記憶のこと、全部なしにするってのは無理かもしんねえけど、…でも海を見るとさ、なんか今生きてることその事実だけでどうでもよく思えるんだから不思議だよな」

海に、会えてよかった。
海が私たちを包むように、潮風が優しく私たちの頬を撫でた。初めての感覚に心が透き通っていくような気分になった。どうして海にこんなにも心が惹かれるのだろう。ああ、できることなら皆にも見せてあげたい。世界はこんなにも美しかったんだと。

「そうだね、私も、海に会えてよかった」

「…こんな世界にいるくらいなら死んだ方がマシだとか、思ったりもしたけど、案外悪くないかもしれない」

ナマエがいるから俺は生きていける、ありがとな。
彼にきっと悪気はないのだろうけど、突然不意をつくように普段言わないようなことを簡単に言ってのけるのだから毎度驚かされる。エレンはたしかに変わったけれど、純粋さは前から変わっていない。いつも私が言っているようなこととはいえ、いざ言われると少し心臓に悪いなとも思う。それでもやっぱり嬉しいことに変わりはなくて、私の頬に手を添えた彼に身を委ねた。

私たちは一体、どこへ向かっているんだろう。まだその答えは見つからないけど、きっと天国や地獄なんて、そんなものは私たちには通用しない。そんな曖昧な場所にたどり着くくらいなら、私はどこまでもこの世界で生きていたい。ああ、今やっと、この世界に希望を持てた気がする。空っぽのココロが満たされたような、彼もそんな気持ちになってくれただろうか。握った手に力を込める。ねえ、私はあなたとなら生きていけるよ。






Wander around The World

いつか目が見えなくなって、声や音が聞こえなくなって、この世界を嫌いになっても、それでもあなたを愛していたい



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