この平和な世界で恐怖を感じる瞬間がどれほどあるのだろうか。この世界の多くをまだ知らない私たちは、それこそこの世界で前ほどの恐怖を感じたことはない。もちろん、ここの生活環境とわけが違うし当たり前といえば当たり前なのだけど。でも、なんだかその感覚は私たちがいた世界とこの世界との間の、決して埋まることのない深い溝のようだった。

今日もたくさん歩いて歩いて、歩き回った。知らない世界をふらふら巡るだけでも初めての発見は多い。少しこの世界について知ることができたような気もするけど、きっとそれは全体のほんの僅かにも満たないものなのだろう。私たちの世界は壁の中だけでその範囲は限られていたけれど、ここの世界に、壁は一切ない。計り知れないほど、広い世界。私たちが知ったことなんて、この広さのほんの一部でしかない。
空の真上にあった太陽がゆっくりと沈んでいく。そんな景色に魅せられた私たちは、とっくにエネルギーを使い果たして疲れたというのに気にもとめず、重たい足に鞭を打ってそのまま夕日の、なるべく近くて高いところを目指した。

「私、夕日ってこんなに間近に見たことない」

たしかに今まで憧れてやまなかった世界が、たった今目の前にある。私たちが求め続けていた世界だけど、そこに嬉しいとか、明るいような感情はなかった。不思議だ、今までずっとこの場に立つことを夢みていたのに。あんな世界なんて、大嫌いなのに。

「こんなに素敵な景色があったんだ」

オレンジ色の暖かい光が私たちの身を包む、知っているつもりだったけど、夕日の綺麗さを、今初めて知った気がする。それでも負の感情が消えることはなかった。こんな綺麗な景色でさえも取り払えないほどの残酷な光景が、もう深く頭に染み込んでいるからだ。

「私たちは、こんな平和な世界を望んでいたけど」

恐怖がないっていうのも、なんだかこわいよね。
自分で思うように出た言葉に、まず自分で意味が分からなかった。恐怖はないのが一番いいのに、あんなに嫌だと思っていたのに、どうかしてるのかもしれない。でもそんな言葉にエレンが小さく頷いてくれているのが視界の隅に入って、少し安堵する。

「この世界で生きてる人たちは、俺たちの過去も、あいつらの存在も知らずに生きてるんだよな」

「そう、だね」

仲間が目の前で喰べられる、なんて恐怖の大きさもきっと想像もつかないんだろう。

「なんで、最初から俺たちはこの世界に生まれてこなかったんだ」

できるならば、そうしたかった。それでも、あの恐怖の世界が存在し続ける限り、誰かが必ずあの場に行かなければならなかったのかもしれない。それが、ただ単に私たちだったというだけで、それで世界は歯車を噛み合せていたのかもしれない。きっと、私たちがこの世界にいることはいけないことで、それこそ世界の歯車は今ちょっとずつ狂いだしているんじゃないかと思う。全部憶測にすぎないけれど、結局はことの始まりなんてものは誰にも分からないのだ。

「俺はもう、あの世界ただ一つしかないと思ってた」

「うん、私もだよ」

「でも、またこうして生きてる」

前の俺たちは、なんのために闘ってた、なんのために、仲間を失ってきた。
彼から呟かれる一言ひとことの、答えはない。私たちはあの世界に決着をつけることもできずに、今でも未完結のままだ。

「この世界で死んで、また別の場所で生き返ったらどうする」

「私たちに終わりがないってこと?」

「分かんねえけど、迷ってる限りそうなる可能性がある」

ずっと生と死を繰り返すなんて未知の現象は想像できなかった。今でさえ、ふたつめの命に驚いているのに。でも彼が言うことは現実味があって、本当になりそうだった。

「私は、エレンがいるならいいよ」

「…なんだそれ」

深刻そうだったエレンの表情が、少し柔らかくなった。照れ隠しとばかりに彼は私の頭を撫でてきた。もちろん本心からの言葉だ、ずっとエレンがこうしてくれてれば私は私でいられる。

誰が作り出したかも分からない世界という場所で、どれほど足掻いたって謎が顔を出すことはしないだろう。それは彼も私も理解している。けれど、私たちが今までに受けてきた苦痛がそんな理由だけでは済まされないことも、理解していた。だったら、せめて自分には素直でいたいから。





運命とは、なんて残酷で儚いのでしょう


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