「なんだか楽しくなってきた」

終わりが見えない森の中で、彼がそんなことを言い出した。その表情に少し、瞳の輝きが戻っているような気がして私も嬉しくなった。足は疲れて徐々に重くなってはいるけど、それでも私はなんとか彼について行こうと一歩一歩足を踏み出す。

いろんな地を踏みしめて結果やってきたのは、何の変哲もない、空が覆い尽くされそうになるほどの高い森だった。大きな木の根っこがあちこちに張り巡らされている不安定な地を歩くのは相当体力がいるし、終わりが見えないとなると精神的にも疲れる。前の私だったら、きっとこんな場所でも早く足を進めていたんだろうな、なんて他人事のように思う。
他人事という表現は、なんだか変だけど、あながち間違っていないようにも思う。自分のことのように記憶があるだけで、その時の感覚はまったく残っていない。ましてや、こんな非力な自分が兵士になんてなれるわけがない。前の自分は自分であっても今の自分ではなかった。

「ちゃんとついてきてるか?」

「こんなのへっちゃらだよ」

そう強がっていると不意に手を取られて「もう少しだ」と励ますような声が聞こえる。どうやら私はやっぱり誤魔化すのが下手らしい、どうしてもエレンには私の嘘がばれてしまうのだ。ああそうだ、いつしかの訓練の時もこんな風に先導してくれて、手を引っ張ってくれてたっけ、彼は優秀だったから。なんとなくぼんやり浮かんだその光景は今と重なって見えた。ああ、前も今も頼ってばっかだな、私。

「なんで笑ってんだよ」

「いや、ちょっと思い出し笑いで」

「思い出し笑い?」

「エレンが前の訓練でもこんな風に助けてくれたあの時の、落とし穴は最高に面白かったなあって」

「ああ…そんなこともあったな、」

バツが悪そうに頭をかいた彼に私が再び笑い出すと「そんな笑うなよ!」と眉間に皺を寄せて彼は少し歩く速度を速めた。そう、たしかあの時は集団に遅れてた私の手を引いてくれた直後だった。私の前を歩いていたエレンは教官が用意していたであろう落とし穴に綺麗に収まったのだ。あの見事なハマりっぷりが兵舎内でしばらく話題になったのは言うまでもない。

「あのなあ、あの時俺が助けてなかったらお前が落とし穴に入ってたんだからな」

「ごめんごめん分かってる、感謝してるよ」

てっきり私だけ覚えているのかと思っていたから、彼も覚えていたという事実は少し嬉しく思う。でもやっぱりそれは記憶だけで、懐かしくは思えても寂しさは残るような、何とも言えない気持ちになるのだ。感謝なんて言葉も、今の私に残されているのは記憶だけだから、それは前の私の言葉になる。

エレンに手を引かれるがまま森の中を歩いている最中にふと上を見上げる。空を埋め尽くす大きな大きな木を見ては、ふと嫌な記憶が掘り返されそうになって視線を彼の背中に戻す。ついつい、過去から目を背けたくなってしまう。あんな残酷な過去、いっそ忘れてしまいたいくらいだった。

「ほら、もうあそこが出口だ」

彼の言葉に前を見ると、そこには小さな滝があった。水の流れはそんなに激しくはなくて、それでもその下に続く川に流れる水はとても透き通っていた。その滝の奥にはもう大きな木は一本もない。
エレンに手を取られてからはあっという間で、足も軽かったような気がする。川の側まで行って水中に手をつける。自然の冷たさは疲れた身体にはとても気持ちよかった。

「この周りの木、何メートルだと思う?」

「ええっと、二十メートルくらい?」

「まあそんなもん、だいたい十五、六メートルらしい。…にしても、やっぱでけぇよなあ」

そう言って笑ったエレンの言いたいことが、なんとなく分かって思わず動きを止めてしまった。力なく笑った彼から出る次の言葉に、咄嗟に耳を塞ぎたくなった。

「俺がこのくらいの奴になって、これよりでかい奴とかと闘ってたんだよな」

「………」

「 今でも信じらんねえけどさ、お前の記憶にもあるってことは間違いじゃないんだよな、あの力は」

彼は自分の手のひらを見つめていた。私はなにも答えられなかった。言いたいことはたくさんあるのに、いざ言葉にしようとすると頭が真っ白になってしまう。
あの時の出来事はすべて今じゃ想像できないほど壮絶で、今の私たちが背負うには重すぎる。だからといって、どうしようもないのが現実だった。

「いっそのこと、ぜんぶ忘れられたらよかったとも思うんだけどな」

「……エレン」

「それじゃ駄目なのはもちろん分かってるけどな。お前もあいつらも、こんな俺を疑いも憎みもしないで、怖がらないでいてくれた」

それだけが俺の頼りだったからさ。

「…ちがうよ、エレンは、なにも悪くない」

私たちがエレンを疑ったり憎んだりする要因なんて、なに一つなかったんだから。

「…ん、ありがとな、」

必死に頭を回転させて絞り出した私の言葉に、またエレンは力なく笑った。その表情にまた私はぎゅっと苦しくなる。もし前のことを全部ぜんぶ忘れていたとしたら、私たちは幸せに暮らしていたのだろうか。この記憶がなくて平凡にこの世界で暮らす自分なんて想像できなかった。

「もし全部忘れてたら、お前とこうして旅なんてしないだろうし、そもそもお前のことも忘れてるならこの世界で会うことすらなかったのかもな」

「…たしかに、そうだね」

「そう考えると、少しだけど気が楽になる」

この記憶は忘れるべき記憶じゃないんだってな。
川の水で冷えた私の手を握ってエレンは森の出口へと足を進めた。今度のエレンの笑顔は一瞬だったけど、さっきとは違って優しさがあった。こんな優しい笑い方、前の彼じゃできなかったんだろうな。冷えていた手は彼の体温に包まれてじわりと温められていく。さっき感じた苦しさはもう無くなっていた。

森を出る直前に、もう一度大きな木を見上げた。葉の隙間からは曇りのない青い空が顔を出している。もう、過去から目を背けてはいけないんだと自分に言い聞かせた。
自然の力はすごい。この木たちだって、根っこを踏まれても踏まれても消して枯れることがなかったから、こうして大きくなったんだ。そうして、きっとまた新しい木が地から芽生えてゆっくり根付いていくのだろう。
この森がなんだか前の私たちの生き様を体現したみたいで、もう他人事のようには思えなくなっていた。





あなたを忘れるくらいならこの命に終止符を


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