もう日がすっかり沈んだ頃、ソファに座ってテレビを見ていたエレンが突然立ち上がって椅子に掛けてあったコートに袖を通した。夕飯の支度を始めようとしていた私はその様子がキッチンから見えて、どこへ行くのかと問おうとしたところで「お前も出掛ける用意しろ」とコートを投げられた。こんな寒い夜に一体どこへ出向くというのか、そんな予定は無いはずだしどこかへ行くなんて聞いていない私の頭には疑問しかなかった。

「えっと、どこに?」

「星を観にいく」

「…今から?」

意味も分からずコートを羽織った私の手をエレンはそのまま玄関まで引いていく、どうやら本当に今から星を観にいくらしい。彼が突拍子もない行動をするのは昔からのことだけど、やっぱり何をするのかは今でも予想出来ない。何で急に星なんか観たくなったのかな、と理由を考えたところで答えは出てこないだろうし本人に聞いてもきっとなんとなく、だとか曖昧な返事が返ってくるのは目に見えていたので何も聞かないことにしておく。
ドアを開けたエレンに続いて外へ出るとピリピリと肌寒い風が頬に刺さった。マフラーと手袋を完全装備している私でさえ寒いというのにエレンはマフラーも手袋も着けていなかった。これでは風邪をひいてしまうと慌てて防寒具を取りに行こうとしたもののエレンは早く星を観たいのか私の手をどんどん引っ張っていく。こうなってしまえば彼は自分の目的を果たすまで周りに見向きもしなくなる、この時点で私に残された道は諦めてエレンについて行くほかなかった。

しばらくして辿り着いた場所は木々がたくさん生い茂っている場所だった。車から降りるなりエレンは奥へと進んでいくのでその後ろを私も追いかける。そうして木と木の間を縫って少し進んだところで開けた場所に出た。この場所は地上から少し高い位置にあるようで、山から景色を眺めているような感覚だった。こんな素敵な場所があったのか、と一人で少し感動しているとエレンは木で作られたベンチに座るなり夜の空を仰いだ。それにつられて私も彼の隣に座り空を見上げる、空気が澄んでいるからなのかいつも見る空よりも明らかに星が多く見られた。

「こんな場所よく知ってたね」

「まあ、道はうろ覚えだったけどな」

夜空の星から目を離さないままエレンはそう言って小さく笑った。それでも星を眺めるその瞳はどこか悲しそうで、私は意味もなく呼吸を止めかけた。それを見るのは別に今回が初めてというわけではない、エレンは時々こういう表情をする。何を思っているのか私にはその心の内は分からないけれど、きっと彼が考えていることは私の想像を遥かに超えるようなことなのだろう、何となくそう思った。ぐっと胸が苦しくなる、そう考えれば考えるほど何故だか私は不安に押し潰されそうな感覚に陥って思わず視線を自分の靴に落とした。急に隣にいるはずのエレンがそこにいないような気がして、ほとんど無意識で彼の手を握っていた。エレンが不思議そうにこちらを見ているのが視界の隅に映る。確かに手の感触も温もりもある、エレンはここにいる、そうは分かっていても心のどこかに僅かに残った不安は拭いきれなかった。

「なんだよ、どうした?」

「…なんか、エレンが消えてっちゃいそうだったから」

「は、なんだそれ」

変なこと言うなよ、と笑ったエレンの白い息はすぐに寒空に溶けていった。先ほどまで真剣に考えていたはずなのに改めて口に出すと自分でも意味が分からなかった。何を考えているんだ私は、エレンはちゃんとここにいるのに。自分の思考にだんだん恥ずかしさが込み上げてきて握っていた手を離そうとすると今度はエレンから私の手を握ってきた。手袋越しからでも分かるくらいその手は冷えきっていた。

「あー、俺も手袋くらいしてくりゃよかった」

「私取りに行ってあげようとしたのにエレンが急かすから」

「それなら一言言ってくれよな」

「ああなったらエレン周りなんかそっちのけでしょ」

私がそう言うなりエレンは何を思ったのか私の巻いていたマフラーをぐるぐると外し始めた。温かかった首も冷たい空気がすかさず隙間から侵入してきて思わず肩を強張らせる。

「ちょっと、なんで外すの」

「俺もマフラーする」

「えー、今これ私が巻いてたんだけど」

私の言葉を聞いているのかいないのかエレンはお構いなしに自分の首にぐるぐるとマフラーを巻こうとするので私は自分の首に残されたマフラーを引っ張られないように押さえつける。私のマフラーはもともと大判で長めだけどさすがに二人で一つのマフラーを巻けるほど長くはないと思う。案の定エレンが巻く度に私のマフラーが引っ張られていきそうになった。

「…短いな」

「何言ってるの、当たり前でしょ」

「まあ、でもあったかい」

エレンの声はさっきとは違ってマフラーの中でくぐもって白い息にはならなかった。自然と距離が縮まったこともあってか、たしかに一人で巻いていた先ほどよりもよっぽど温かく感じられた。私の頭の上にエレンが頭を乗せてくるせいで明日になったら身長が縮んでいるかもしれない、なんて意味もなく考えてしまった。
そうして暫く二人して空を見上げていると、夜の空を一瞬で駆けた小さな星が視界に入り目を見開く。すぐに消えてしまったけど、私の目は見逃さなかった。

「わっ、エレン今の見た!?流れ星!」

「ああ、すげえな…初めて見た」

「ね、願い事、願い事しなきゃだ、何回だっけ、三十回?」

「焦りすぎだろ、落ち着け」

そう呆れたようにエレンが息をついた、私からしてみれば何でそんなに冷静でいられるのかが不思議で仕方ないのだけど。何をお願いしようかと考えていればまた流れ星が一瞬だけ空に瞬いた。それでもやっぱりあっという間で、消えるのが速すぎてお願いなんて追いつきもしない。やっぱり駄目か、と半ば諦めているとまた一つ、また一つと暗い夜空の上を星が流れていった。これが流星群というやつなのだろうか、しばらくその綺麗な光景に見とれていると不意に手を強く握られた。

「ナマエ、」

「……エレン?」

「ずっと、俺の傍にいてくれ」

ぽつりと膝に落ちた雫が雨ではない、エレンの涙だという事実に気づくのにそう時間は掛からなかった。突然のことにさすがに驚いたけれど、そう言ったエレンの言葉は今にも消えてしまいそうで私まで切ない気持ちになった。

「どうしたの、突然」

「…ナマエが俺の前から消えていきそうだったから」

自嘲の笑いにも似たその言葉は、さっきの私と同じことを言っているはずなのにひどく重たく感じた。私は消えたりなんかしないのに、何故だかそれがまるで本当のことのように聞こえた。自分で変なこと言うなって、言ったくせに。 もう失うのは嫌だ、俺を置いていかないでくれ、そのひとことひとことが私に刺さっていくみたいで息が詰まった。一体彼が何を抱えているというのだろうか、悲しそうに呟かれていく彼の言葉に何故だか私も泣きそうになってきた。

「…私はエレンを置いていったりしないよ」

繋いでいる手とは違う手をエレンの背中に回す。彼の涙の理由が分からなくたっていい、私も強く彼の手を握り返した。私はここにいるのだと、エレンに伝わるように。また一つ、小さく光を放ちながら星が空を駆けていく。星が瞬くのと同時に零れるエレンの涙も流れ星みたいに綺麗で、私は何度も何度も彼の幸せを空に願った。







星降る夜に傘をさす

流れ落ちていく星は彼の記憶の栞


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