眩しい朝日に目が覚めた。ゆっくり瞼を上げると、いつの日か見慣れてしまった天井が視界に入る。一体ここに来てからどれくらい経ったのだろう。窓から日が差し込んでくる空を眺める、清々しいくらいに綺麗な青空だ。ベッドから身体を起こしてみると頭がすっきりしていた、そこで私は何故だか今日が彼女との最後の日になると思った。なんとなく、そんな気がしたのだ。私の在るべき場所はここじゃない、私はあの世界に帰らなければならないのだと、誰かが囁いたようなそんな感覚だった。

部屋を出て居間へ向かうと、朝食のパンの焼ける香りがふわりと空間を包んだ。ミオの作るご飯はとても美味しい。見たことのない料理をたくさん生み出す彼女の手は、あの世界での不器用な彼女のそれとまったく違うものだった。今日の朝食は何だろうとわくわくする反面、私がこの世界に存在するのも今日が最後だという事実に胸が痛んだ。

「おはよう、サシャ」

あまり表情を変えないはずのミオは、まるでその事実を知っているかのように優しく笑った。

ミオは、壁外調査で私を庇って死んだ。私の目の前で、巨人に喰べられていった。あれはいつの日だったか、随分と昔のことのように思う。あの時はただただ逃げることに必死で、ミオを殺した巨人を倒すことも出来ずに背を向けてひたすら馬を走らせた。そんな弱い自分が憎くて憎くてたまらなかった。
それなのに、彼女は今平然と目の前に存在している。私は、どういうわけか壁の有るあの世界から壁の無い別世界へ飛ばされたという不思議な出来事が自身に起こっているのだと気がつくまでにだいぶ時間がかかった。この世界に存在しているミオは私と再会したことで、今まで忘れていた壁の有る世界の記憶を全部取り戻したらしい。生きている彼女に出会って、私は何度も何度もミオに泣きすがりながら謝罪を繰り返した。その時は申し訳なさやら驚きやら嬉しさやら感情がごちゃごちゃしていて、正直あの時の私は正気じゃなかったと思う。

どうやってこの世界に来たのか、どうやって元の世界へ戻れるのか、分からないことは多かった。それでも私は、彼女にこうして再び会えたのもきっと神様が私に与えてくれた最後のチャンスなのだと勝手に解釈して彼女との時間を過ごした。ミオは団服のままだった私に洋服を与えてくれて、とても美味しいご飯をご馳走をしてくれたり、この世界についてたくさん教えてくれた。そうしてミオと過ごしていくうちに、私はこの壁の無い世界の環境に慣れつつあった。自由を妨げる壁はない、恐ろしい巨人はいない、そしてミオが隣にいることがいつしか当たり前になっていた。

「ミオ、これはなんて言うんですか?」

「それはチョコデニッシュ、そっちはオムレツとカップケーキ」

「とっても美味しいです!」

「そう、よかった」

ミオは普段通りの抑揚のない声でそう言って手元のリモコンという機械をテレビという箱に向けた。そうするとテレビの中で人が喋り出す、その光景を初めて見た時はとても驚いたけれど、今でも魔法なんじゃないかと疑ってしまう。巨人がいないだけで、こんなものを開発してしまうほど人類は進歩してしまうのか。この世界は日々人類の生活の便利や快適さを追究し続けているのだとミオが言っていたのを思い出した。

「…ミオ、」

今言うか、後で言うか。いや、今ちゃんと言うべきだ。私はもうこの世界にはいられない、帰らなければならないのだと。後なんてもう私には残されていないのだから。小さくミオの名前を呟くと彼女はテレビから視線をこちらに移した。

「…私、今日でこの世界にいられるのが最後だと、思うんです」

「…………」

「……根拠とかはないんですけど、なんとなく分かるんです。私は多分、ここに突然来た時みたいに、突然いなくなるんだと思います」

「…そう、」

テレビの音がやけにうるさく聞こえるような気がした。ミオは一瞬だけ私の言葉に目を見開いてから、またいつもの表情に戻って紅茶の入ったカップをゆっくりソーサーに置いた。

「…じゃあ、今日はケーキを作らなきゃね」

「ケーキ、ですか?」

「サシャの再出発記念と、健闘を祈って」

今日はとびきりのご馳走作るからね、そう言ってミオが小さく笑った。彼女はもともと感情を表に出すことをしないけれど、意外にもあっさりした反応が返ってきたことには少し驚いた。悲しいと思っているのは私だけなのだろうか、いつもは嬉しいご馳走という言葉を聞いても何故だか気分は上がらなかった。

その日、最後という単語ばかりがずっと頭をぐるぐる回って夜が来るのはあっという間だった。ミオが夕飯の支度をしている間に部屋へ戻り、ずっと部屋の隅に置きっ放しにしていた団服に袖を通す。ミオが洗濯してくれていたようで、ふわりと甘くて優しい洗剤の香りがした。あっちの世界には、こんなにいい香りの洗剤は無い。軽くて触り心地のいい洋服に慣れてしまったせいかいつも着ていたはずの団服が重たく感じられた。
部屋を出て居間の扉を開くと、テーブルに並べられたたくさんの美味しそうな料理が真っ先に視界に入った。本当に、あの不器用だったミオからは想像できない。

「うわあ…これ全部作ったんですか!」

「ちょっと、作りすぎたかな」

思わず感嘆の言葉が出た私にミオはそう言って苦笑した。席に着いて「好きなだけどうぞ」というミオの合図で料理にがっついた。ああ、美味しい、幸せだ。
そうして暫くしてからミオがキッチンから持ち出したのは真っ白い、上に赤い実が乗った初めて見る食べ物だった。ミオによるとこれがケーキらしい。

「私の想像してたケーキと全然違いました…真っ白なんですねえ」

「これはショートケーキって言うの、はい、フォーク」

ミオに言われるがままフォークでそれを掬ってそのまま口へ運ぶ。ふわりとした感触に甘さが口いっぱいに広がる、赤い実は甘酸っぱくてすうっとクリームに溶けていった。あまりの美味しさにショートケーキとやらをまじまじと見つめる、一体ミオの料理の美味しさに限界というものは存在するのだろうか。この感動をいかにして伝えようかとミオを見ると、彼女の瞳からは涙がぼろぼろと溢れ出ていた。あのミオが泣いている、予想外のその光景に思わず目を見開いた。

「……っ、ごめん…」

「…ミオ?」

「……こんなこと言っちゃ駄目だって分かってる、でも、私やっぱり嫌だよ、」

いかないで、お願い。
ミオの掠れた声が部屋に響いた。それと同時に私の目からも涙がどんどんこぼれ落ちてくる。なんで、今になってそんなこと言うんですか、せっかく決めたのに、そんな顔されたら行きづらくなるじゃないですか。涙を必死に堪えようとしてショートケーキを無理やり頬張る、それでも涙は止まってくれなかった。

「…わ、私だって嫌ですよ、誰が好き好んでいつ死ぬかも分からない世界になんて行くんですかっ…!私だって、ミオと一緒に、この平和な世界でずっとずっと暮らしてたいですよ!!…でも、でも」

違う、私はこんなことを言いたいんじゃない。隣に座るミオの瞳が不安げに揺らいだ。頬を伝ってくる涙が、口の中の甘いショートケーキをしょっぱくした。違う、そうだ、私には使命がある。ミオが守ってくれたこの命を蔑ろになんて出来ない。私が戦いを放棄したら、ミオが死んでいった意味が無くなってしまうじゃないか。そんなのは、もっともっと嫌だった。ぎゅっとミオを抱きしめる、嗚咽を堪える彼女は今にも消えてしまいそうだった。

「私は、ミオのために戦います。ミオが守ってくれたこの命を、今度は私が守り通してみせます。ミオの思いも全部私が受け継ぎます、…だから、そんなこと言わないで下さいよ…」

たとえ平和な世界で暮らすことを望む事が出来たとしても、私はきっとミオの意志のために残酷な世界を選ぶ。それが、ミオを死なせた私のせめてもの償いだった。

「絶対、死なないで」

ミオが涙を浮かべた瞳で私を見た。ああ、神様、どうして私をこの世界に連れてきたんですか。はじめは奇跡が起きただなんて喜べたことも、今じゃ私を苦しめるものでしかなかった。こんな辛い思いするくらいなら、もういっそミオに出会わなければよかったのかもしれない。そう思う私は、最低なんでしょうか。いくら決意を固めようともミオがいない世界に行きたくないと心のどこかで思ってしまう私は、本当に往生際が悪い。私は、前に進まなきゃ、ミオと一緒に。最後に聞いたのは「いってらっしゃい」と言った私の大好きな、ミオの優しい声だった。











「…サシャ、サシャ!早く起きないと朝ごはん食べそびれちゃうよ!」

随分と深く眠ったような気がする。揺さぶられて瞼を開けると何度も名前を呼ぶクリスタが視界に入った。そうして彼女の朝ごはんという言葉にベッドから飛び起きる。なんてことだ、朝に食べそびれてしまったら昼まで食糧にはありつけない。きっとクリスタに起こしてもらわなかったら完全に寝坊していただろう。慌てて団服に着替えて廊下を進み食堂を目指す。その後ろをクリスタが小走りでついてくる、不意に彼女はあれ、と小さく声を上げた。

「サシャ、とってもいい匂いがする」

「?私は美味しくないですよ!?」

「えっ!いや、そういうのじゃなくて…なんでだろう、皆の服同じ石鹸で洗ってるんだけど…」

とっても優しくて甘い香りがするの。そう言ってクリスタが笑った。その言葉に、何故だかは分からないけれど泣きそうになった。


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