私が先ほどまで教官に怒られていたことなんて忘れてしまうほど、今までお腹が空いていたことを忘れてしまうほど、ミオ・ローゼリアという彼女の第一印象は衝撃的すぎた。きっとあの場にいた訓練兵は皆そう思ったことだろう。鬼のような形相の教官を目の前にして怯むわけでもなくただ反発する彼女の姿はまさに勇者そのものだった。怒られるのを分かって反発したのかは本人にしか分からないけれど、あれほどの勇気があるのは凄いと自分も芋を食べて教官に怒られた身ながら素直に感心してしまった。

そんな彼女は今、私の少し後ろを走っている。教官に殴られた左頬はかなり痛々しいもので口端が切れてしまったのかガーゼが当てられていて少し血が滲んでいた。あれほどの強さで殴られても尚、彼女は表情一つ変えずに起き上がったのを思い出す。一体彼女は殴られた時何を思ったのだろう、とふと考えてしまう。
彼女は真面目に走っていないのか、もう私より何周か遅れるくらいのスピードで走っている。教官は死ぬ寸前まで走れだなんて言っていたけれどそろそろ私にも限界が近づいていた。すっかり日は暮れて、辺りは次第に暗さを増していく。食堂から僅かに風にのってくる夕飯のスープの匂いが私のお腹の虫をぐうと言わせた。もう限界だ、もう本当に。お腹が空いて走るどころではない。
ちらりと彼女を確認すれば最早悪気もなさそうに平然と歩いていた。そんな光景に驚いて自分のことではないにしろ焦ってしまう。そんなところを教官に見つかれば今度こそ開拓地行きは決定だ。特に彼女は教官の怒りをすごく買ってしまったのだから。
彼女に声を掛けるべく前に向いたそのままの体勢で後ろへ下がり隣に並んでから彼女に合わせて前に進めば、彼女は怪訝そうに私を見た。

「いいんですか、こんなところ教官に見られたら終わりですよ!」

少しばかり小声気味で彼女にそう伝えれば、ふう、と彼女は息をついて遂には歩くことすらやめた。そんな光景にさらにぎょっとする。

「もうそろそろいいでしょ、私はもう死ぬ寸前」

「…で、でも」

「それにもうこんな暗いから。きっと教官には私たちの影すら見えないと思う」

そう淡々と言う彼女の言葉にはっとする。確かに私の隣にいる彼女の顔さえはっきりしないほど辺りは暗くなった。よく周りを見ているんだなあ、と思いながらも忘れかけていた空腹感が再度襲ってきてその場に倒れこむ。なんだかお腹が空いては彼女を見て、彼女を見ては空腹感を忘れてとても気持ちの良いものではない。空腹感を忘れるというよりは空腹感をふっ飛ばされるくらいに驚かされているだけなのかもしれない。突然倒れた私に少し驚いたようで彼女は地面に膝をついて私の肩を揺らした。

「た、食べ物……を、」

「何言ってるの、もう夕飯の時間は過ぎたから無理だよ」

「そんな…食べないと死にます……!」

彼女の呆れ気味に言った絶望的な言葉に私はショックを隠せなかった。こんなにスープの香りを漂わせておいてもう終わりだと言うのか。それじゃあまるで拷問じゃないか。まああの鬼のような教官がいる時点で既に訓練という拷問は始まってしまったようなものか……というか私はこんなにもお腹が空いているというのに彼女はお腹が空いていないのだろうか。不思議だ。芋の分だけ私よりはるかにお腹が空いていると思ったのに。私はこんなにも空腹で死にそうなのに彼女はこんなにも平気で冷静だ。身長だって体格もそう変わらないのに彼女の胃袋は一体どうなっているのだろう。不思議でならない。
飢え死にに近い死に際でいろいろと無意識に彼女のことを考えていると、僅かに、ほんの僅かにだけれど食べ物の気配がした。それを見逃すことなく気配のした方へ一瞬で食らいつけば可愛らしい女の子の悲鳴が聞こえたけれど気にしていられなかった。そうして死に物狂いで口に加えた食べ物を確認すればそれは紛れもないパンだった。

「二人分持っていきたかったんだけど、一つしか取っておけなくて…」

ごめんなさいと申し訳なさそうに謝るパンを持ってきてくれたのだろう金髪の子が神様にしか見えなかった。とてもありがたい。まさにお腹が空きすぎていた私の神様です。そうして無我夢中にパンにかぶりついている最中、神様の「あっ、だからミオにも分けてあげて!」と慌てながらに言う声にはっとする。そうだ、もうだいぶ食してしまったがパンは一つしかないのだと思い立ってミオを振り返る。そうすれば彼女は首を横に振った。

「いい、譲る」

「いいんですかっ!?」

「あっ、じゃあせめて水だけでも…」

「大丈夫、お気遣いどうも」

そうして特に表情も変えずにミオは宿舎の方へと帰ってしまった。ただでさえ小さい一つのパンを半分にするなんて食べた気がしないにしろ何も食べないよりは十分マシだと思うのだけど。ミオが歩いていく背中を見つつぼんやりとそう思ったものの瞬時に切り替えて目前のパンの食事を再開する。彼女が譲ると言ったんだ、彼女のご厚意に甘えて存分に頂くとしよう。彼女、ミオ・ローゼリアはパンを譲ってくれたとてもいい人だ。思っていたよりも優しい人だな、と思いながら少し安心した。明日の朝、彼女に会ったらお礼を言わなければ。そう考えながらもパンを食した後いつの間にか私は眠りについていた。


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