たとえそれがどれだけ本人にとって強い思いでも意志でも、どれだけ輝かしい希望を持ってきても、自分の中にある恐怖に打ち勝てなければ自分の中にある甘えを取り払わなければ、そんなものこの場で役には立たなかった。現実は常に厳しいものだ。

通過儀礼と称され教官に出身地や名前、何をしに此処へやって来たのかを怒鳴られながら質問されて言葉によって挫折を味わわせるそれは随分と退屈なものであるとミオは思いながら欠伸が出そうになった。教官に名前を聞かれることなく通り過ぎられた人間もいるようで、何故だかは分からないが自分もそうであってほしいなと何となく思った直後のことだった。
教官の怒鳴っていた声が少し変わったような気がしてミオがそちらを見れば、何かを右手に握りしめた女が教官の目の前にいた。教官がその手にあるものは何だと問えば彼女は堂々と蒸かした芋だと宣言し、更にはそれを手で二つに割り小さい方を教官に差し出していた。少し分ければ許して貰えるとでも思ったのか、はたまた違うのか。周りの兵士の視線が一気に彼女に集中した。あんなことを堂々とする人間が訓練兵にいるものなのか、と思いつつ興味が無くなったミオは目線を再び前に立つ兵士の背中のジャケットのマークへと戻す。

訓練兵団は過酷だ。脱落者が大勢出る。ここに来るまでに何度もミオが聞いてきた噂だ。現に今の通過儀礼の時点で立ち直れなくなったであろう兵士は顔を見ればすぐに分かるものだった。そんな彼らを一瞥しても特に何も思わないのはおかしなことだろうか。ミオは世間に流されてなんとなく兵士を目指してきた彼らとは違った。意志が固くなければ兵士にならなければいいのに、と特に意味もなく考えるミオは周りに流されるような性格ではなかった。
それにしても、とミオは背にある自分の手を組み直した。長時間同じ体勢で立っているのは非常に辛い、それも頭の奥まで響くような教官の怒鳴り声をずっと聞かされるなんてたまったものではない。退屈で仕方がないこの空間に痺れを切らしたミオはついため息を漏らしてしまった。そんなに大きな声ではなかったが教官の耳にはしっかり届いていたらしく、あ、とミオが思い立った時には既に鬼の形相の教官が目前にいた。

「…おい、今ため息をついたのは貴様か?」

「いえ、滅相もない」

「貴様は何者だ!」

「トロスト区出身、ミオ・ローゼリアです」

「声が小さい!!」

「トロスト区出身、ミオ・ローゼリアです」

「全く聞こえん!貴様、馬鹿にしているのか!」

「トロスト区出身、ミオ・ローゼリアです」

全く声の大きさは変えずに、まるで逆に教官の声が彼女に届いていないかのように何度も同じ言葉を繰り返すミオもまた、先ほどの芋の彼女同様に他の兵士の視線を集めるのには十分だった。

「いい度胸だなローゼリア…貴様は何をしに此処へ来た」

彼女の悪い意味で肝が据わっている態度に今にも怒りが爆発しそうな教官はミオの胸ぐらを掴み彼女にそう問うが、顔色一つ変えず未だに彼女は教官と視線を合わせようとはしなかった。

「…調査兵団に入って人類の進撃に貢献するためです」

「…そうか、ローゼリア、どこかで聞いたことがある名前だと思えば随分前に貴様の父親は調査兵団にいたな」

「それが何か問題でも」

「貴様も親と同様に家畜以下の巨人の餌になるんだろう、想像が容易にできる」

「いえ、絶対なりません」

教官と目を合わせなかったミオはやっと目を合わせてそう言った。もともと周りは静まっていたが、その彼女の言葉で空気が更に張りつめたのは明らかだった。きっぱりと教官の言葉を否定した彼女に周りも驚きが隠せず目を見開いて彼女を見る。今この状況は訓練兵にとって教官が絶対と言っても過言ではない場だった、下手に否定すれば何が起こるか分からない。

「なんだと?」

「ですから私はあんな家畜以下の男みたいな、無様な餌には絶対ならないと言っているんです」

分かりますか?と二度目のため息をつきながら教官に言うミオはどうも自分の危険を察知できていないようで周りの兵士が逆に冷や汗をかき、焦り、緊張して教官とミオを交互に見やった。そうして遂に、教官のミオに対する怒りは制御することができなかった。
教官がゆっくりと振り上げた右拳は見事ミオの左頬に命中して彼女はその勢いで地面に伏した。周りの兵士は声をあげることもできず、ただただ息をのんでその光景に釘付けになった。たとえミオが女であろうと訓練兵を志願した以上教官も容赦はせず怒りのあまり拳を振るった。

こうして、かつて今までにないような驚愕の格闘を教官と繰り広げたミオは自身の出身と名前を繰り返したこともあってか、自然とその場にいた104期生全員がミオ・ローゼリアに濃くも異質な印象を抱くことになったのだ。


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