「…これは?」

「あんたにあげる」

夜、薄暗い部屋の中ミオが机に向かっていると不意に彼女の前に小さな包みが置かれた。不思議に思って見上げればそこにはアニがいて、彼女はミオを見るなり目を逸らし部屋の壁に寄りかかるようにして座った。

「開けていいの?」

「…別に。好きにしなよ」

アニの返事を聞くなりミオは小包の袋を開けようと手をかける。そうして封を解いて中を覗けばほんの少し甘い匂いが広がってミオの鼻を掠めた。

「…これ、どうしたの」

「昨日、町に出向いたら売ってた。珍しいと思って買ってみたけど私の口には合わなかったから」

小包の中に入っていたのは数枚のクッキーだった。ミオは予想外の物の登場に思わず目を丸くしてアニを見た。こういった砂糖等が使われた洋菓子類は物価が高く、買うのはせいぜい内地の貴族くらいでこの近辺ではそう売られていないものだ。ミオ自身、甘いものなどもうずっと食べてはいない。

「あんた、ここ最近ずっと勉強詰めだろ」

「うん、まあ追試も近いし」

「…甘いものは疲れが取れるらしいよ」

気休めくらいにはなるんじゃない、とアニが呟くように言った。ミオはアニを一度見てから手元のクッキーを見た。彼女はただ単に自分の口に合わなかったから譲ってくれたのかもしれない、それでもミオは素直に嬉しく思えた。

「ありがと、アニ」

アニだけじゃない、他のみんなも、以前の自分だったなら助けを拒んでいたはずなのに。ミオは自分が不思議で仕方がなかった、なんとなく、自分が自分で無い気がした。自然と人と関わること、今まで他人に相手にされてこなかったミオにとってそれは出来ると思いもしなかったことだった。
それなりに小腹が空いていたミオは一度クッキーを掴みかけてその手を止める。こんな貴重な物だとなんだか食べるのがもったいないと思えてきてしまったのだ、どうしたものかと彼女が決めかねていると部屋の扉がゆっくり開いた。

「あ、ミカサ」

「……ミオが自分で勉強している」

「…私だってさすがに危機感くらいあるよ」

部屋に入ってきたミカサはあからさまに驚いたような目で机に向かっているミオを見た。そんなミカサに気づいて日頃の行いはこういうところで出るのか、とミオは意味もなく思った。

「もう諦めているのかと、てっきり」

「…最近ミカサの中の私ってなんなのか不安になる時がある」

「私の中のミオ?…口を開けば面倒くさい、の、怠け者」

「………」

「…あんた、ミカサにこんなに言われて悔しくないの」

「なんていうか、事実すぎて何も言い返せない」

そう言ったミオの言葉の後にアニのため息が部屋に響いた。ミオの表情は変わってはいないものの、その目は少し虚ろにも見てとれる。ミカサは純粋に思っていたことを言っただけで悪気は無いのだろう、首を傾げるだけだ。

「諦めていると思ったから、無理にでもミオに勉強させようと思っていたのだけど」

「ミカサが?」

「私にも、教えられることはある」

そう言ってミカサはミオの隣に腰を下ろして手に持っていた資料を机に置いた。どうやら彼女も勉強に付き合ってくれるらしい、ミカサが座ったところでミオは大丈夫だと断ろうとしたが、出かけた言葉を無理やり引っ込めた。違う、これでいいんだ。アルミンが言ってくれたように、自分はもう周りを頼ってもいいのだ、拒む必要なんてない。ミカサだって自分のためにこうして動いてくれたのだから。今までとは真逆の行動をしている自分に、本当にこれが正しいのだろうかとどこか不安になる気持ちを抑えつけながらミオが心の中で何度も言い聞かせていると、ふとミカサからの視線に気づいてミオは顔を上げた。

「…ミオは、変わった」

「…そうかな」

「変わった、すごく。あなたは何でも自分でやろうとするから、断られるかと思った」

そのミカサの言葉に、ミオは先日の自分がやけに懐かしく感じられた。兵士を諦めるか、周りを頼るか。板ばさみの状況にあった自分は戸惑ってばかりで最終的にどちらか一つを選ぶことはできなかった。そうしてどちらの選択肢も拒んだ。兵士は諦めない、勉強もしない、それはまさにジャンの言う矛盾そのものだった。ジャンやサシャ、マルコたちの助け、アルミンの助言が無かったら今自分がどうしていたのかも想像がつかないし、決して良い方向ではないだろうから想像したくもない。ミカサだけじゃない、いろんな人が変わったと言うけれど、自分は良い方向に変われているのだろうか。

「…私は、兵士を諦めないよ、絶対」

「………」

「…ミオ」

「私はミカサと調査兵団に入るって、決めてたから」

頼りにしてる、って言ったでしょ。そうミオに言われてミカサが思い出したのは初めて彼女と会話を交わした時のことだった。そんな前のことをいちいち覚えているだなんて、ミオは本当によく分からない。あの時の自分を思い出してミカサは少し恥ずかしさにも似たような感覚に顔を隠すように首元のマフラーを口元まで引き上げた。

「…私は、別にミオと調査兵団に入るつもりはない」

「え」

「私はエレンの配属先について行って彼を守る、それだけ。そんなことよりも、あなたは調査兵団を夢見る前に目前の追試に集中すべき」

「……うん、そうだね」

「…そしてミオ、」

「ん、なに」

「その手に持っているものは何」

甘い匂いがする、そう言ってミカサが指したのはアニがミオに渡したクッキーの入った袋だった。ミオが「アニがくれたの」とミカサに中身を見せてやるとミカサは振り返って後ろのアニを見た。それに応えるようにアニも読んでいた本から顔を上げてミカサへと視線を移す。

「アニも、ずいぶん変わった」

「…案外あんたも人に言えたもんじゃないと思うけどね」

じっと二人の視線は交わったまま、沈黙が部屋を駆けた。一体どうしたのだろうとミオは長い間無言のまま見つめ合っている二人に特に何を思うわけもなくクッキーを一枚取り出してかじりついた。「甘い」と普段の淡々とした口調ながらもどこか嬉しそうなミオの声が、沈黙の部屋に溶けた。


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