急斜面を下ってなんとか降り着いた地面は大雨のせいですっかり水浸しになっていた。気温も先ほどいた地上と比べたら一気に低くなっている、ライナーはコートのフードを被り直した。真冬のように寒い、こんな場所に暫くいたら凍えてしまうだろうと察することが出来る。

「ミオ、いるなら返事しろ!」

何度かそうライナーが声を張り上げてみるものの、返ってきたのは雨が地面に打ち付けられる音だけだった。ミオが転がり落ちただけだとすればそう遠くには行っていないはずだろう、ライナーは辺りを見渡してから彼女を見失わないようにとゆっくり歩き出した。
ライナーが歩く度に足元で雨水が跳ねる音が静かに響く。ミオは無事なのか、その不安は時間の経過に比例して膨れ上がっていくようにライナーの脳内を支配した。もちろん不安はそれだけではない、自分がミオを見つけたところで彼女が素直に自分の助けを受け入れるかどうかは別の話だ。もしあの時、ミオがライナーに荷物を預けていたらこの状況にはならなかったのかもしれない。そんなことは誰にも分かりはしないが、無理やりにでも荷物を奪ってやるんだったと少なくとも彼は悔やんでいた。
自分が助ければ救われた可能性が僅かでもあったものを、助けなかったために失って後悔するのはもう嫌だった。

そうしてミオを探すため歩いて少しした頃だった、ついに倒れている人影がライナーの視界の端に映った。それがミオであるとすぐに理解すると彼は咄嗟にその影に駆け寄った。

「ミオ!!」

倒れている身体を抱きかかえて確認するとミオはうっすらと目を開けた。
転がり落ちた時にでも強く頭を打ったのだろうか、ライナーは彼女の頭を支えている自分の腕が真っ赤に染まっていることに気づいて思わず息をのんだ。ミオの髪の隙間からは赤が覗いている。

「おいミオ、しっかりしろ!」

「……ライナー、」

ミオは薄く開かれた瞳でライナーの姿を確認して掠れた小さな声を絞り出した。そうして自分の身体を起こそうとするが腕に上手く力が入らないのか起き上がれずそのままライナーの腕に倒れ込んだ。水たまりに浸っていたせいかその身体はひどく冷えきっていて呼吸から吐き出された息は白かった。とにかくミオに意識があることが分かりライナーの張りつめていた緊張が緩んで彼は安堵の息を吐いた。

「無理するな、頭から出血してるぞ」

「…なんでこんな所まで来たの」

「お前が崖から落ちたからだろう」

「……そうじゃなくて、」

助けてもらう権利は私にはない。そう呟いたミオは再度腕に力を入れ頭を押さえながらやっとの事で起き上がった。もう彼女の身体は限界のはずだ、それなのに未だに一人の力で立ち上がろうとしている。本人も自分に限界がきていると分かっているだろう、そんなミオを目の当たりにしてライナーは眉間に皺を寄せた。彼女の自分を投げやりにするような考えにもう黙っていられなかった。

「私には、私のやり方がある」

「…馬鹿かお前、今のお前一人じゃ帰還する前に行き倒れになるのは目に見えてるだろ!」

「……言ったでしょ、一人で解決出来なきゃそこで終わりだって」

「っ、だから…お前は自分を分かったつもりで実際何も分かっちゃいねえんだよ!!」

感情に任せて叫んだライナーの声が辺りに反響する、予想外の出来事にミオは驚き目を見開いて彼を見た。ライナーはどうしてもミオに言いたかった、今言ってやるべきなのだと手を握りしめた。少しだけ沈黙が流れる、ミオは動揺していた。ライナーの言葉は核心をついて彼女に冷たく突き刺さった。

「助けが必要ないだなんて、今のお前に言える権利はない」

「…何言って」

「いい加減気づけよ!!今いるお前の場所は昔とは違う!…お前に何があったかなんて俺は知らねえ、でもお前が助けを求めれば助かる自分の命を勝手な都合で投げ捨てて、それで悲しむ奴らが何人もいるんだよ!そいつらは、…助けられなかった無力な自分を、一生責め続けることになる」

ミオはライナーが何を言っているのか全く理解出来なかった、理解したくなかった。彼はこんなにも怒る人だったのか、呆然とそんなことが彼女の頭の隅をよぎった。自分が死んだところで、悲しむ人がいるのか。私にそんな人はいない、そうライナーに言おうとしたところで不意に少し遠くから名前を呼ぶ声が聞こえた。

「ミオ!ライナー!」

突然の声に呼ばれた二人は一斉に声のする方を振り返った。そうしてベルトルトとアニがこちらに駆け寄ってくるのに気づいてライナーとミオはいっそう目を丸くした。

「…お前ら、なんで」

「ミオ、血が…大丈夫!?」

頭から出血しているミオに気づいたベルトルトがそう声をかけた直後、乾いた音が辺りに響き渡った。それが無言のまま前に歩み出たアニがミオの頬を叩いたものだと理解するのは数秒遅れてからだった。ライナーとベルトルトは予想外の光景に目を見開いて固まった、叩かれたミオも驚いた表情で俯いたままのアニを見下ろす。微妙な沈黙が少しだけ空間を支配した。

「……いたい、」

「…あんたは、ほんとに大バカだよ」

「アニ、」

「私がどれだけ心配したか、あんたに分かる?分かんないだろうね、こんな所で転がり落ちてるようじゃ到底分かりはしない」

「…………」

「あんた言ったよね、自分の限界が分かるって。…なのに、なんでそうやって全部一人でやろうとするんだ、ちっとも分かってないじゃないか」

最後の方は声が震えていて、顔を上げたアニは今にも泣き出しそうな表情だった。ミオが初めて見る彼女の表情に戸惑っていると、アニは自分の顔を隠すようにミオの首に腕を巻きつけて彼女に抱きついた。アニの体温はミオの冷えきった身体にじわりと染み渡るように温かかった。

「あんたは、もう一人じゃない」

耳元でそう呟かれた言葉はアニの腕の中でくぐもって響くことなく消えていく、それでもミオの心の中では残り続けて消えることはなかった。アニの腕に力がこもる。人肌はこんなにも温かいものなのか、それはミオにとって生まれて初めて感じたことだった。

「…….一人じゃない…、」

ぽつりとアニの言葉を繰り返すようにミオは呟いた。そんなこと今まで言われたことがない、何より自分は孤独だと思っていた彼女にとってその言葉はとても新鮮なものだった。未だに困惑したままのミオの頭に温かい手が優しく乗せられる。彼女が見上げたことでその手がベルトルトのものだと分かった。

「…僕は、ミオに沢山助けられてきた」

「……ベルトルト、」

「だから、今度は僕が君を助けたいんだ。勝手だと思われるかもしれないけど、僕はミオに、笑ってほしいと思うから」

その言葉にミオの瞳が揺らいだ。ミオには理解出来なかった、何故こうも自分を助けるためだけに訓練を捨ててこんな所に降りてきたのか、足手まといにしかならない自分なんて放っておけばよかったのに。何故こうも優しい言葉ばかりかけてくるのか、自分には助けられる権利も優しくされる理由もない。
それはこの世に自分が存在した時から変わらないただ一つの事実だった。他人の力より自分の力の方が断然信頼出来るものだとこの身をもって嫌というほど痛感してきた。人間なんて所詮自分が一番大事だ、もちろん自分もそうだった。そう思っていたのに、それでも知ってしまった。人肌の温かさを、孤独から解放された場所を知ってしまってはもうもう戻ることは出来なかった。今まで当たり前だと思っていた孤独に自分が怯えていたことを、今初めて知った。

「…っ、なんでそんな優しくするの」

ミオの目には徐々に涙が溜まっていく。自分が生きている事が許されたわけではないのは分かっている。ただ、あまりにも長い時間の中を誰の支え無く一人で乗り越えてきた彼女はもう耐えられなかった。今だけなら助けを求めていいだろうか、自分が生きている事を肯定していいだろうか。

「…もう貸し借りなんて気にするな」

お前は、もっと俺たちに頼っていいんだ。
霞む視界の中、そう言ったライナーの顔が悲しそうに歪んでいたのが見えた。ぐらりと景色が揺れてミオはアニに身体を預ける。もう瞼がだいぶ重たくなってとても開けてはいられなくてミオは目を閉じた。
ライナーまで泣きそうな顔でそんなこと言わないでよ、とミオが目を閉じたままに返すとライナーは彼女の頭を乱暴に撫でる。彼がその言葉に否定をしつつも僅かに鼻を啜った音が聞こえてきてミオは小さく笑った。

「帰ろう、ミオ」

アニの声が優しく静かに響く。その言葉にミオは安心して意識をゆっくりと手放した。いつの間にか大降りだったはずの雨もだいぶ小雨になっていた。




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