「ライナー!ミオがっ!!」

突然前から聞こえた叫び声、呼んでいる名前からして七列目の班のものだ。つんざくように耳に届いたそれにアニは走っていた足を止めかけた。知っている名前が出たことに驚いて声がした前方を見るものの大雨は強くなる一方で遠くは何も見えない。確かに先ほどの声はライナーとミオの名前を呼んでいた、そう聞こえてきた声を確認するようにアニは何度も頭の中で繰り返した。

「……っ!」

「アニ!」

突然班員を押し退けて一人走り出したアニに同じ班のベルトルトが呼び止めるが、その声すら今の彼女には届いていなかった。そんな彼女の後を班員に一言告げてから慌ててベルトルトも追いかける、彼自身も突如聞こえてきた声には動揺したがアニは周りが見えないくらい焦っているのがベルトルトには分かっていた。
一体ミオに何が起こったのか、そう考えるだけでアニは居ても立っても居られなくなった。もしかしたら想像しているものより大事ではないのかもしれない。そうと思っても最悪の事態が頭をよぎれば一瞬でアニの脳内は不安と焦りに侵食された。大事ではないのだとしたら此処まで届くほど声を張り上げる必要があっただろうか。日々の過酷な訓練の中で命を落とすことはそう少なくない、とにかく何であれ七列目の班がいる場所まで追いつきミオの状況を確認することだけを考えようとアニはすっかり重たくなった荷物を投げ捨てただただ必死になって全力で道を駆けていった。

視界が悪い中、暫く走り続けてアニとベルトルトがやっと数人の人影を見つけたのは急な登り坂で道幅が狭くなっている場所に差し掛かったところだった。恐らく七列目の班員だろう、危険な場所だというのに彼らは立ち止まったまま何か話し合いをしているようで二人がそこに駆けつけてみると困惑したような表情で振り返った。そこに肝心のライナーとミオがいないことに気づいて二人の不安は更に大きくなっていった。

「え、アニとベルトルト…!?」

「こっちまで声が聞こえてきたんだ、何があったの?」

「…ライナーとミオはどこ、」

「…っそれが……」

「…ミオが足を滑らせて、それでライナーが……」

二人とも、崖から落ちていった。
悔しそうに顔を歪めて呟かれた班員の言葉にアニもベルトルトも目を見開いた。衝撃すぎた言葉に理解が遅れつつ二人とも崖の下へと視線を移す。悪天候のせいもあり底は見えなかった。

「…もう無理だよ、こんなに高いんだ。立体機動装置も付けてないのに無事なわけが、」

「おい!よせよ、ライナーならきっとなんとか…」

「でももう落ちてから時間だって結構……」

崖の下にいる二人の安否は誰にも分からない。班員たちがざわざわと騒ぎ始めた中、突然アニが崖に足を掛けた。今のアニに少しでも触れたら崖から落ちてしまいそうなほど、彼女は戸惑いを見せることなく地面ぎりぎりの場に立って下を見下ろしていた。突然のアニの行動にベルトルトは咄嗟に彼女の腕を掴んだ、アニなら本当に二人を追いかけて崖から落ちかねないからだ。

「…なに、離してよ」

「……君までむやみには行かせない」

そう言ってベルトルトは掴んでいる手に力を入れた。無自覚だろうけれど今のアニは暴走している、何となく雰囲気でそう感じたベルトルトはとにかく一旦彼女の普段の冷静さを取り戻すべきだと判断した。アニは自分を止める彼を睨みつけるがベルトルトも一歩も引かなかった。他の班員も彼女に止めるようにと次々に呼びかける。

「もう遅い、お前が行ったところで犠牲者が増えるだけだ!」

「私はあんたらの神経が理解できないよ。…私は仲間が目の前で落ちていったら、じっとなんかしてられない」

「アニ、冷静になるんだ」

「…ベルトルト、あんたも私と一緒に落ちればいい。この下でライナーとミオを一人で探すのは骨が折れそうだから」

「アニ!」

「あんただってミオが心配でここまで来たんだろ。それとも落ちるのが怖いの?…皮肉だけど、この程度じゃ私もあんたも死ぬに死ねないよ」

「………」

「…おいアニ、いくらお前らが成績上位でもそりゃ過大評価しすぎだろ」

「……分かった、僕も行こう」

「なっ!?」

「おい!ベルトルトまで何言って…!」

アニのことを止めておきながら意見を変えたベルトルトに対して周りからは驚きと非難の声が上がった。この底がどこまであるか分からない崖から落ちるなんて死にに行くようなものだ、アニは彼の言葉を予測していたかのように顔色一つ変えず特に驚きもしない。そうしてベルトルトは七列目の班員へと振り返った。

「僕とアニで、ミオとライナーを見つけ出すよ」

「馬鹿か、お前まで帰れなくなるんだぞ!?」

「…なんとか帰ってみせるさ、だから皆は先に進んで教官にこの事を伝えてほしい」

大丈夫だと曖昧に笑うベルトルトに誰も言い返すことは出来なかった。ミオが不慮の事故で落ちた、でももしかしたらライナーとアニとベルトルトなら最悪な状況からミオを救ってやれるかもしれない。目の前で落ちていくミオを見てしまった以上は放っておけば班員全員の心にずっと嫌に残ったままだろう、今はこの訓練兵団誰もが認める実力のある三人に任せる他なかった。

「……分かった、」

「っ、絶対死ぬんじゃねえぞ!」

ベルトルトの言葉に大きく頷いた班員は一斉に前へと走り出した。それを見届けてからベルトルトはアニの方へ振り返ると彼女はため息を一つついて彼を見上げていた。

「…誰に感化されたのか知らないけど、あんたも変わったね」

「…アニも変わったよ」

「誰かに指示するような奴じゃなかった」

「人のこと心配するようになった」

互いが互いにミオに影響されている、そんな言い合いが可笑しくてベルトルトが小さく笑えばアニも呆れたように眉を下げて笑った。心なしか雨は弱くなっているようだった。

「ライナーだって、あんなに警戒してたのに今じゃ助けに行ってる。…ミオには人を変える才能があるのかな」

「…さあね、私には他人を面倒事に巻き込むただの馬鹿にしか見えないけど」

また一つため息をついてからアニはそう言った。そうやってアニは悪く言うけどちゃんとミオのこと心配しているんだ、遠回しすぎるアニにベルトルトは苦笑した。アニが素直になれるのは一体いつになるのか。
そうして二人は合図で一斉に崖から飛び降りた。ライナーとミオの無事を祈り、きっと大丈夫だと二人を信じた。死なせはしない、絶対四人で帰るのだと二人は強く決心しながら底が見えない谷へと落ちていった。


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