予想通りの大雨、数日前から準備をしていた兵站行進もついに今日が本番だ。雨のせいで霧がかかって視界はすこぶる悪い、今までの演習はあまり宛にならなさそうだ。コートを羽織り荷物を背負い教官の合図で一斉に敬礼をする。なんとなく周りの兵士を横目で確認すると皆気が引き締まったような顔つきをしていた。得点が高い訓練だからだろう、憲兵団を目指すのならこれはぜひとも成功させたい訓練のはずだ。

「ミオ、大丈夫か」

班で集まり最終確認を終えるとすぐ出発だ。隣に立つミオに声をかけると奴は大きく首を縦に振って頷いた。演習で何度か手こずっていたミオは不服そうにしていた今までとは違い、覚悟を決めたのか目つきは真剣なものだった。

「なんだ、珍しくやる気だな」

「巨人の餌に成り下がるのだけは嫌だから」

そう淡々と言うミオはいつもの調子を取り戻していた。元々面倒くさがりで怠惰なミオは前日の演習でもどこか諦めたように訓練を受けていた、もちろん俺が班長なかぎり班員全員ゴールさせるつもりだが。粗方ミオの言葉からして当初の目標でも思い出して気合いを入れたのだろう、その姿にやけに安心してミオの頭をフード越しに乱暴に撫でると嫌そうに顔を歪めてこちらを見上げてきた。その顔が何だか可笑しくて笑っていれば「笑うな」と肩を結構な力で叩かれた。以前に比べたら格段にこいつの表情は豊かになっているだろうと何とはなしに思った。


そうして前の班が出発してから暫くして俺達の班も出発した。前の班を見失わないようなペースで雨の中を走る。背中の荷物は水分を吸っていき徐々にずしりと重さが増していった。それでも足を止めてはいけない、前にも後ろにも他の班がいるのだから。
演習で付いてこれなかったミオは息を荒くしながらもしっかり付いてきていた。大した進歩だった、一体この一日で何がミオを変えたのだろうか。思わず感心してしまうものだ。そうは言ってもやはり気合いだけではどうにもならない事もあるようで、暫くしてからミオのペースは落ちてきていた。本人は追い付こうと頑張っているようだが呼吸が乱れてきているのが分かる。最初こそ配慮してミオが付いてこられる程度に走っていたが、もう前の班とは大分離れつつあった。さすがにこの状態ではこれ以上ペースは落とせない。

「ミオ、荷物を貸せ。俺が持つ」

走りながらそう後ろを走るミオに振り返り声をかける。いくら班の中だろうと個人に手を貸すことは原則禁止とされているが、この背中の荷物が無いだけでも随分と楽に走れるはずだ。一つ荷物が増えても俺はまだ走れる自信があった、ミオは俺の言葉が予想外だったのか驚いたように目を少し見開いた。それも一瞬のうちですぐに元の表情へと戻ったのだが、そうして俺を一度見てから前方に視線を移した。

「いい、…大丈夫」

「…お前なあ、無理するなよ」

「大丈夫、だから」

そう言い切るミオはしっかり前を見据えていた。まさかこんな状況でも助けを断られるとは、本当にこいつは人の力を必要としないらしい。そんなに息を荒くして一体何が大丈夫だというのか、それでも俺はその言葉に言い返せずにペースを上げたミオを信じようと前を向き直った。
あのミオが、必死になって訓練に挑んでいる。周りの班員が驚くのも無理はない、演習でも付いてこれなかったあの怠け者で有名なミオは今ここにはいない。無表情で人形みたいな印象だった奴がこんなにも今は人間らしく苦しそうに走っているのだ。ほんとうにミオは変わった。この調子なら自分が手を貸さずともきっと乗り越えてくれるだろう、今はそう信じるしかなかった。




出発してからどのくらい時間が経っただろう、俺達の班は急な登り坂の場所に差し掛かっていた。雨のせいで足場は悪い、そのため地面が坂になると速度は自然と落ちていった。だいぶ疲労も溜まってきていた、雨は次第に強くなっていき段々と身体の体温が奪われていくのを感じる。それでもペースを維持しようと既に疲れきっている足に鞭を打って進んでいく。目前に広がった道幅は二人が横に並んで歩けないほどに狭いものだった。すぐ左は崖になっているようで視界が悪いことも手伝って底は見えないくらい深い。仕方ないので二列だった班を一列に崩して前進する。少し遠くを進んでいる前の班の後ろ姿が霧のせいで余計に薄れて見えにくい。思わず自分たちはしっかり追い付けているのかどうか不安になってしまう。

そんな事を考えていた時だった、後ろから何かが落ちるような音がしたのは。班員はちゃんと俺に付いてきているのだろうか、何事かと俺が後ろを振り返りきる前に一人の班員の声が冷たい空間に響き渡った。

「ライナー!ミオがっ!!」

少し離れた場所から焦ったようにそう叫んだ班員に嫌な予感がした。一体ミオがどうしたというのか、変に煩くなった心臓の鼓動を掻き消すように班員の元へ急いで駆け寄る。そうして近づいていくと次第にフードに覆われた班員の顔が見えてくる、その場所に何故かミオだけがいなかった。

「どうした、ミオは!?」

「泥濘に足を滑らせて、崖の下に…!」

そう困惑したように震えた声で班員は底が見えない崖を指した。一瞬、雨の音が耳障りなくらい煩く聞こえた。おいミオ、お前大丈夫だって俺に言ったじゃねぇか。気づいたら俺は荷物を放り出して崖から飛び降りていた、重力に従って急斜面を前へ前へと勝手に足が駆けていく、思っていたよりも崖は深い。後ろから危険だと自分を呼び止める声がした。こんな高いところから落ちてミオは無事なのか、視界が悪いのにミオを見つけることが出来るのか、そんな事をごちゃごちゃと考えるよりも身体が先に動いていた。
ただただ必死だった。ミオにもしも最悪な事態が起きていたらと心は焦る一方だ、あいつがいないだけでこんなにも自分は不安に駆られていた。あの時どうしてミオの、根拠なんて全くない大丈夫という言葉を信じてしまったのか。自分を恨みたくなった。あいつがあまりにも真剣で努力していたから、ミオは大丈夫だと俺自身も勝手に思い込んでいたのだ。もっと気にかけるべきだった、きっと崖から落ちたのは泥濘のせいだけじゃない、あいつの体力自体もう限界が来ていたこともあるだろう。それに気づいてやれずに俺は自分のペースで走っていた、ミオが弱音を吐かない奴だと知っていたはずなのに。今さら後悔したって遅い、分かってはいるが頭に浮かぶのは自分の失態ばかりだった。悔しさと焦りとが混ざり合う思考の中でどうか無事でいてくれと願いながらも必死にあの姿を探した。


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