「こんなところで何してんの」

静寂に包まれた夜。ついに夜直が回ってきてしまったある日、気だるくも舎管室に着いたら寝ようと考えながら暗闇の中で渡り廊下を歩いていた時だった。こんな真夜中だというのに外に一人の人影を見つけた。普段なら気にすることもないのだが夜中ということもあり非常に怪しかったため放ってはおけず、警戒しつつもその影にゆっくりと近づいた。そうして手元の年季が入ったランプを灯して掲げればその影が次第にミオだということが分かる。一体こんな夜中に何故彼女が外のベンチにいるのか、そんな謎に眉を寄せながらも声を掛ければ彼女はこちらを振り返った。

「…アニこそどうしたの」

「夜直だよ、でもあんたは違うだろ」

そう言って証拠の代わりに夜直用の報告書を見せればややあってからミオは小さく首を縦に振って頷いた。毎晩交代制の夜直は二人で行われるが今日私と同じ時間帯を受け持ったのは同室のハンナだと既に知っている。本来ならミオがこの時間に外にいるわけがない、この状況はまさに夜直である自分が報告書に書くに価する相応しい一大事だった。

「よかった」

「なにが」

「アニが来てくれて、よかった」

ぽつりとミオから溢れた言葉は聞き落としそうになるくらいに掠れた小さな声だった。何を思っているのかそう言うミオの目はそこには存在していないかのように空っぽで何も映していなかった。そんな見たことのない彼女に思わず息をのむ。

「…どういう意味」

「夢をみたの」

「夢?」

「生まれてきてから最期まで、ずっと一人でいる夢」

少しひんやりとした風が吹き付けて髪が揺れる。暫しの沈黙の後、私は手に持っていたランプを横に置いて彼女の隣に少しだけ距離を空けつつベンチに座った。ランプは重たいし何となく彼女の話を聞いてやろうと思えた。まあ所謂ただの気まぐれというやつだ。ミオはその夢が怖くて起きてここに来たのだろうか、と頭の中で大まかな推測をする。この考えはだいたい当たっているだろう、夢の話をするミオの声が震えていた。

「アニの家族は?」

「…お父さんがいる」

「そっか」

私にも、形だけそんな人がいたよ。
突然の質問に何の意味があるのかと思って答えれば確かに彼女はそう言った。ミオの父親、そうして私の記憶の中で浮かび上がったのは入団式だった。確か父親については調査兵団で既に死んだかのように言っていたのを思い出す。形だけとはどういう意味なのか、そうして彼女からの続きの言葉をじっと待つ。

「私を生んで直ぐに母親は死んだ。だからあの人は私を憎んだ、私の存在が母親を殺したんだと」

「……」

「私は憎まれ続けた、ろくに世話もしてもらえなかった。あの人と私は間違っても親子って呼べる関係じゃなかった」

ずっと、一人だった。
自分の過去を話している最中でさえミオは顔色一つ変えずに淡々とそう話していた。きっとまだこれは過去の一部に過ぎないのだろうけれど、その過去は自分とはあまりに違う境遇で少し驚いた。

私はあの日を忘れはしない。父が私に味方だと言ってくれたあの日を。父から格闘術も教わり練習にも毎日付き合ってくれて、私は強くなれた。私は、ちゃんと父に愛されていたのだろうか。
どちらにせよ彼女は私と全てがまるで違う、彼女はずっと憎まれ続けてきっといっそ捨てられた方がよっぽどマシな生活を送っていたのだろうから。何となくそう感じた。だからこそどう言葉をかけるべきか、私には慰めの言葉一つすら思い浮かばなかった。彼女と私の親への見解の差が大きいこともあったからだろう。そうして出てきた言葉はその話題に掠りもしないものだった。話を反らしたかったわけではない。でも追及するのも違うと思った。

「…あんた、私が夜直で命拾いしたね」

「どうして」

「他の奴だったら完全にあんたのこと教官に報告してただろうから」

「アニは報告しないの?」

「私は元から見回りなんてする気は無いよ」

ただあんたみたいに外に出たかった気分だっただけ。そう言えばミオは少し驚いたように瞬きを繰り返して私を見た。何をそんなに驚いたのか、おかしなことは言っていないはずだけど。初めて見る表情だと少しばかり新鮮に思っているとミオは視線を前に戻して呟いた。

「やっぱり、アニは私に似てる」

「……」

「私も逆の立場だったらアニと同じようなこと言ってたと思う」

そう言うミオは、薄く笑っていた。彼女は笑うのだろうかと疑問を抱えていた私にとってそれは衝撃的で、動揺させるには十分だった。違う、似てなんかいない。だって私はそんな綺麗に笑えない。

「…あんたさ、表情よく変えるようになったよね」

「……そんなことない」

「まさか自覚が無いわけじゃないだろ。気づいてるんじゃないの、自分が変わり始めてること」

「……」

私は知っている。ミオが最初の頃とは大分変わり始めていることを。無表情で無感情の人形のような最初に比べたら随分と人間らしくなっていた。それはきっと周りの環境のせいで、他人と関わっていく中でミオの表情は豊かになりつつあった。きっと計り知れない過去を持つ彼女にとっては良いことなのだろう。でも、それが私には少し遠い存在に見えて眩しかった。

「あと、よく喋るようにもなった」

「…そうかな」

「そうさ」

「私は元からよく喋るよ」

「まったく、下手な嘘だね」

「あ、アニが笑った」

「…は?」

「なんだ、アニも笑えるじゃん」

満足そうに言った彼女に自然と眉間に皺が寄った。笑ったというよりは鼻で笑うというミオの嘘が下手なあまり呆れて出たもののつもりだったが彼女はそんな私の表情を笑顔と認識したらしい。笑ってなんかない、そう言おうとしてからその言葉を飲み込んだ。彼女の私を見る目は、とても優しいものだったから。また初めて見る表情だ。自分も笑っていたというのに私が笑ったからってそんな顔するなんて狡いじゃないか。

「アニ、ありがとう」

「…それは何に対しての感謝?」

「私の話を聞こうと思ってくれたこと」

アニは優しいね。そんなミオの一言に理解が遅れる。優しくなんかないのは自分が一番分かっているはずなのに、その言葉にひどく安心した自分がいるのは何故か。そんな答えは既に出ていた。

ああ悪いねハンナ、どうやらこの様子だと舎管室には行けそうにないよ。元々寝るつもりではいたもののなんだか急に申し訳がなくなって心でそう呟く。ミオといることが心地良いと感じてしまった私に後戻り出来る道は既に残されていなかった。認めてしまえばもう引き返せない。他人と関わらないように決めたというのに結局これだ。私が心への侵入をミオに許してしまったら彼女のように変わっていくのだろうか。そうしたら、楽になれるかな。思わず馬鹿みたいな考えに笑ってしまいそうになる、裏切ろうとしている奴が楽を求めるなんて。恨まれて憎まれる、それが一番お似合いだという現実に背を向けて、私は今日も明日も無いと知っていながら自分が助かる方法を求め続けているのだ。
せめて教官にサボりが知られて怒鳴られるのは避けるために紙切れだけでも提出しよう、と私は手元の報告書の全ての欄に異常なしの一言を書き込んだ。


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