最近ミカサの様子がおかしい。おかしいというのも普段の生活の中で名前を呼んでも反応が鈍く、何度か呼ばないと返事が返ってこないことが頻繁に増えた。ミカサにしては珍しいので気づいた当初は心配したけれど、どうやら様子からすると彼女は入団式で一騒動起こしたあのミオ・ローゼリアを見ているらしい。実際ミカサと彼女が話しているところを見たことがないのだが、きっと彼女と何かあったのだろう。詳しくは分からないけどそんなに詮索しない方がいいと判断した。意味もなくぼーっとしていたらそれはそれで心配だからまだ良かったけど。

兵法講義も終わり、次は昼休みということもあってか訓練兵は次々と少し騒がしくしながら部屋を出ていく。エレンとミカサには先に食堂へ行くよう促した。僕は今日の講義の復習を少ししたかったので食堂に行く前に資料室へ向かってしまおうと思い立ったのだ。
資料室の扉は立て付けが悪い。少し開けるだけでも力を結構使う。ガタガタと音を立てて扉を開ける度にいつも早く取り替えて欲しいと思いつつ足を踏み入れた。資料室独特のこの紙の匂いは案外嫌いじゃなかった。目当ての資料を探そうと棚へ向かうと、ふと奥の方で誰かの声がした。てっきり皆食堂にいるものだと思い込んでいたため驚きは大きかった。そっと声がした方を覗けばそこには机に伏せたミオがいた。そういえば彼女は今日の講義にいなかったな、と思い出していると先ほどの扉の音で目が覚めたのか顔を上げたミオと目が合った。じっと見られてしまえば思わず視線を反らしてしまう。…なんで僕こんなに見つめられてるんだろう。

「………あ、あの…?」

「…あなた誰」

「え、あっ、アルミン・アルレルト…です」

そう名前を告げるものの彼女はこちらを見たままだ。何か考え事をしているのだろうか。入団してからしばらく経っているので名前を知られていない事に少し寂しく思う。確かに今まで面識が無い分はしょうがないけれど。僕は面識が無くともミオの名前を知っている。僕はもちろん、初日のあの場にいた訓練兵でミオのことを知らない者はいないだろう。なんとなくそんなことを考えていれば「ああ、アルミンね」と彼女は何か思い出したように手を叩いた。それは僕のことを知っているような口振りだったけれど、僕の顔を見て誰だと聞いたのにどういう事だろうと首を傾げる。

「えっと…、」

「ああ、ごめん。エレンからあなたの話聞いてたから」

ミオの口から出ると思わなかった名前に少し驚く。彼女によると、どうやらエレンと話をしたことがあるらしく彼から僕たちの過去の話を聞いたらしい。

「外の世界、海っていう塩水で覆われているんでしょ」

「え……うん、もちろん見たことが無いから信じ難いとは思うんだけど…」

「私は信じてるよ」

抑揚のない声でミオがそう断言するので目を見開く。普段見られる彼女の雰囲気ではそう簡単に物事を信じなさそうで批判されるかと思っていたのだけど、何か彼女は外の世界について知っているのだろうか。気になって問いかけようとすれば、彼女は手元にあった一冊の本を開いて隣の椅子に座るよう促されたのでそれに従う。

「これ見て」

「うわあ……」

彼女が少し汚れた古びた本を開ければそこに描かれていたのは海と思われる絵だった。真っ青に広がっている海は空の夕日に照らされて水面をきらきらと輝かせていて思わず感嘆の声が出た。それほどまでに綺麗な絵が載っていた。そこではっとして何故こんな本があるのかと彼女を見る。外の世界の本を持っているだなんて知られたら一大事になってしまう。

「この本は一体どこで、」

「…昔、通りすがりのおじさんに貰った」

良ければ読む?と暢気に聞いてくるミオは相変わらず危機感がない。自分が大変重大なものを訓練場に持ち込んでいて、更にはお咎めを受ける立場であることを理解しているのかしていないのか。まあ理解したところで彼女には関係がないのだろう。そうは言っても、実を言えば自分自身この本が気になるのが事実だ。こんな海やその他壁の外について詳しく書かれた書物は滅多にお目にかかれない。ミオに危険性を悟らせるよりも是非とも読ませて頂きたいものだった。

「じゃあ、ちょっとだけ…」

「いいよ、別に貸すし」

「えっ、それは悪いよ!」

「そもそも、これ読むのちょっとじゃ済まないと思う」

そう言ってミオは僕にパラパラと本を捲って見せる。確かに細かい字がぎっしりだった。それに少し読めばどんどん続きを読みたくなる、とミオに言い足されるともはや借りるほかなかった。それにしても嬉しいことだ。意外な人物が外の世界についての資料を持っていて尚且つそれを借りることが出来るとは。また外について知識が増えることに少しばかり胸を踊らせていればミオが口を開いた。

「最初聞いた時は驚いた」

「え?」

「外の世界について知っている人がいたこと。だからずっとこれ見せてあげたいって思ってた」

そしたらあなたがアルミンだったから驚いた、とミオは表情変えずにそう言った。そんなに驚いた様には見えなかったけれど、確かに僕自身ミオが知っていたことに驚いていたから彼女も内心で驚いていたのだろう。みんな壁の中で当たり前のように生きてきた。外の話をする人はそういない。

「そういえばもう昼休みだけど、ミオ兵法講義いなかったよね?サシャが探していたよ」

「うん、ここでサボってた」

あっさりと悪びれるわけでもなくそう言ったミオに苦笑する。講義の前は立体機動の訓練だったから疲れていたのだろうか。マイペースだな、なんて思いつつ食堂へ行かないのかと聞こうとすればミオの腹の虫がぐるぐると鳴き出したので思わず声を上げて笑ってしまった。そうすればミオに表情を変えることなく笑うなと言われ謝るが、あれはなんとも絶妙なタイミングだった。

「鐘の音に気づかなかったの?」

「うん、アルミン来てくれなかったら寝ててお昼食べそびれてたかも」

ありがとう、と一言言ってからミオは席を立った。自分のためにここへ来ただけでお礼を言われてしまいなんだかむず痒かったけど慌てて食堂へ向かうミオの後をついて行く。
外の世界を探検したい、そうエレンと話していたことは随分と昔のことだけどつい最近のようにも感じてしまう。ミオも外の世界を見たいと思っているのだろうか。表情にあまり変化を見せないミオの心情はやはり分からないけれど興味を持っていることだけは確かだ。何事にも無関心なのかと思っていたがどうやら違ったようだ。いつか外に行ける日がやってきてそれを目の当たりにした時、僕らはどんな気持ちでそこに立っているのだろうか。そんなことまだまだ先の話だと分かってはいるものの考えれば少なからずわくわくしてしまうものだ。さっきミオが見せてくれた絵のように、海はきらきら輝きながら自分たちを待っていてくれるだろうか。

結局話している間にも昼食の時間が刻々と過ぎてしまうので目的の資料探しは諦めてしまったけど、それでもこんな貴重なものを貸して貰えたので自然と後悔はしなかった。資料室を出る時も扉は大きな音を立てて閉まった。その後に立て続けて僕の腹の虫が大きく鳴った事に今まで表情を変えなかったはずのミオが笑ったのには恥ずかしさと驚きで頭がごちゃごちゃになった。


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