兄がいなくなった。長期任務から帰るとなけなしのお金が入っているだろう財布と小さなバックも一緒になくなっていて、ああ家出か、なんて軽く浮かべた自分に驚く。家出なんてそんな。ありもしないこと。けれど実際に兄は存在をどこかへ消してしまい、そのまま幾日も帰って来なかった。もちろん何度も探したのだけれど兄を見つけることは叶わない。こんなことになるなら日にちのかかる任務になんて行くんじゃなかったなんて後悔しても遅いのだ。後悔は先に立たない。誰に尋ねても見つからないのだから一体どこへ消えてしまったのだろうとぐずぐず燻る。兄は自由な身ではないのだしこのままでは流石に問題になるだろう。
そろそろ胃薬に手をつけようか悩みだした頃、平気な顔をした本人がけろりと寮の古ぼけた扉を開いて「ただいま」だなんてぬかした。あまりにあっさりとしていて言葉もでない僕に兄は「腹減ったあ…」だの「風呂入ってくる」だのつぶやいてそそくさ風呂場へ消えていった。まさかまたどこかに行ったりしないだろうかとちょっと心配もしたけれどどうやら大丈夫なようだ。それに安心して一息つく。ただ落ち着きはしなかったのでコーヒーでも飲もうとカップを棚から取り出したら風呂場の方で「雪男ー、シャンプーねぇんだけどー」と呑気な声が聞こえてきたのでいらついて無視してやった。



風呂からあがった兄に嫌がらせでブラックコーヒーをだす。兄はミルクと砂糖の入ったコーヒーしか飲めないので本当にただの嫌がらせだ。それでも眉を少ししかめるだけで文句も言わずにそれをちびりちびり口にした。

「どうしていなくなったの」

ふうふう息を吹いてコーヒーを冷ましている兄に問いかけてみると目だけこちらに向けて唇を尖らせ「ううん」と小さく唸った。

「どっか行きたかったんだよ」
「……なんで」
「理由なんか、ねえし」

意味わからないし。
じとり、睨むと兄はコーヒーの入ったカップを両手で持ったまま肩を竦めてみせた。

「ホントにねえよ。急にどっか違うとこ行きたくなった」
「…どこ行ってたの」
「色々。金ねえからあんま遠くにゃ行けなかったけどな」

海岸とか歩いた、だのなんだの言ってずずりとコーヒーを啜る。なんだそれ。全くもって何がしたいのかわからない。青春ごっこか。兄ならやりそうだ。
大きくため息をつくと心外そうな顔で覗いてくるのにいらつく。なんだそれ、なんだそれ。苛々する。兄のものとは違いすっかり冷めきったコーヒーを一気に飲み干した。それが余りにあからさますぎたのか兄は小さく「…まあ迷惑かけたのは悪かったけどさ」とつぶやく。謝るくらいなら最初からするなと思ったけれど今更すぎるとも思う。兄に迷惑をかけられることなんてもう慣れっこだ。
兄の身体から石鹸のかおりとコーヒーのかおりがふわふわ漂う。風呂上がりのほんのり赤くなった頬を膨らませて縮こまるその格好は小動物のようであった。

「…どこでも行けると思ったんだけどさ」

唐突に落ちた言葉を拾い、兄を見つめる。伏せた睫毛は小さく震えていて、何故か首筋は白く思える。ああ何を見ているのだろう僕は、首を小さく振った。

「金ある分全部使って電車乗って、色々その辺歩き回ってさあもっと遠くへ行こうってなったときさ、なんかお前思い出して」

あー、置いてきちまったなあってちょっと後悔して。寮を出たときお前いなかったから何にも言わないでそのまま出てきちまったし。仕方ねーなって思って。

「帰ってきた」
「……」
「何だよその顔」
「…わからないなら兄さんは想像を絶する馬鹿だよ」
「…馬鹿じゃねーのって顔してる」
「そう。流石にわかったみたいで安心したよ」

よくわからない理由でいなくなってよくわからない理由で帰ってきて、全く人騒がせな兄だ。一発殴って良いような気もするけれど兄がぶるりと身体を震わせたのでやめておく。
兄はコーヒーのカップを小さな音と共にテーブルに置いて、そのまま突っ伏した。顔を背けられているせいで表情はわからない。

「なんかさ、雪男いねーとだめなんだよこれは」
「……」
「どっか行くのとかさ、遠くに行きてえってのも一緒にいねーと」

逃げたいとかそういうのも全部さ、引っくるめて。何すんのも考えると雪男がいて、そんなんで、どうしようもなくなって帰ってきた。
背けた顔をこちらに向けて、にへらと苦笑いのように笑う。なんだか恥ずかしい人だなあとぼんやり思った。テーブルに肘をついて(ちょっと行儀の悪いような気もしたけれど咎める人は誰もいない)兄に小さくデコピンをすると「あいてっ」その小ささと同じに小さな声もぽろりと落ちる。
さらってくれとかさらうからとかロマンチックで無責任なことを言えない分、ちょっと告白じみた言葉が僕のなかにじんわり染み込んでいった。ああ恥ずかしい人だなあ全く。





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