今日の夕飯はかつおのたたきだった。たっぷりのねぎとしょうがを乗せ、あっさりしたぽん酢につけて食べる。刺身とは違った香ばしさが広がり、なかなかにおいしい。
一人暮らしを始めてから手抜きばかりだった食事は、このごろきちんとしたものに変わりつつある。いい加減健康に気を使えと口うるさいアルバさんを黙らせるために料理をするようになったのだが、これが意外に面白かった。インスタントや冷凍食品ばかりだったのが嘘のようにできたての手料理がテーブルに並んでいる毎日。家族の人数分作るならまだしも一人暮らしの量ではたいして食費が浮くわけでなかったけれど、今では趣味のようなものになってしまっていて辞めようとは思わない。そんなに手の込んだものは作らないし手間でもなくて。今日の夕飯だって適当にすまし汁を作って、あとはスーパーで売られていたものを切っただけだ。大きな魚はさばいたことがないが、小さいものなら丸ごとでもするする下ろせるようになっている。料理を始めたころ生魚のぐりぐりした目が怖ろしくて包丁を入れられなかったのは決して誰にも言わない秘密だった。墓まで持っていく。
食べ終えた食器を適当に洗う。そのあとは風呂に入ったり本を読んだり自由に過ごして寝るだけだ。そういえば、アルバさんがオレの手料理を食べたがっていたっけ。普段あれだけ変な仕込みをされておきながら手料理食べたいってことは何を入れられても良いってことだよな。そう思うと愉快だ。明日辺りにでも招いてやろう。風呂に入る準備をしながらぼんやり考える。明日は何を作ろうか。




「わあ…ほんとにシオンが料理してる」

とり肉を切っていると横から覗いて来たアルバさんが感心したような、不気味そうな、なんとも言えない顔で感想を述べてきた。まな板に向けられていた刃先を無言で彼に向ければ目にも留まらぬ速さで土下座をしたので許してやる。
丸まった背中に足を乗せてやわく踏みつけながらまな板に向き直る。今日は親子丼にすることにした。とりもも肉と玉ねぎを切り、だしや調味料を混ぜたもので煮て、溶き卵でとじるだけなので簡単だ。卵とそれを産んだ鳥ということで親子丼なのだろうが、なんだかむごいネーミングだと思う。適当に味をみながら、いい加減足元にいた奴隷もどきを解放してやると背中を伸ばしながらぷるぷる震えていて滑稽だった。

「ほら、出来たんで皿持ってきてくださいよ」
「うう…わかったよ…」

人づかいが荒いだのなんだのぶつくさ言っているけれど、ここは台所なのだ。凶器になりうるものなんていくらでもある。そう伝えてしまえばすっかりおとなしくなった。
底の深いうつわに、炊きたてでつやつや光る白米と先ほど出来上がった卵とじを乗せれば完成だ。彼の分だけ三つ葉を尋常でないくらい乗せてやれば水を得た魚のようにツッコミをかましてきた。七味唐辛子を山ほど乗せた丼にしてやろうか、なんて思っていたけれど、なかなかいいツッコミだったので許してやろう。
おいしいかと問えば「三つ葉が自己主張激しい」だなどと口にした。わあそんなにお気に召したのなら、なんて追加の三つ葉を彼の丼に放り込む。もはや三つ葉丼と呼んでも差し障りなかった。
なんだかんだ文句を言いながらも三つ葉丼をきれいに完食したアルバさんは手を合わせてごちそうさまと口にする。

「お粗末さまでした、あんなものよく食べられましたね」
「お前が作ったんだろ?!親子丼のところは普通に美味しかったよ…二段構えで何か仕組んでないかと思ったけど」
「それは入れて欲しいってことですか!すみません気づかなくて!」
「いややめてくださいすみません」

くだらない会話をしつつ皿を下げるために立ち上がろうとしたけれど、ぐい、と腕を引かれた。もちろん今この部屋にいるのはオレとアルバさんだけなのだから、腕を引いた相手は決まっている。「なんですか。立てないんですが」少し強めに叩いても手を離そうとしない。何かがおかしい気がした。

「アルバさん?」
「あのさ、シオン。ちょっと話聞いてもらってもいいかな」

顔を伏せているせいで表情は見えなかった。それでも声はぴんと張りつめていて、真面目な話だというのはすぐにうかがい知れる。小さく頷き元のように座れば「ありがとう」と言葉が耳に入ってきた。
彼は少しの間押し黙って、そわそわ落ち着きなさげに視線をさまよわせて。ぎゅっと両手を握りしめる。そうさせるだけの何かがあるのだと思う。オレには見当もつかない。放置された食器がちらちら視界に入った。透明なグラスには水滴がびっしりついていた。

「…ボク、最近、夢をみるんだ」
「夢?」
「そう」
「まさか前世の記憶が蘇って…とかいう話ですか」

グラスについた水滴のように彼のこめかみからも汗が流れている。思わず茶化してしまった言葉に苦笑いで返された。「そうだったらいいんだけどね」嫌な笑い方だ。

「シオンさ、昨日の夕飯、かつおのたたきだっただろ」

そうだ。確かに昨日はスーパーで買ってきたかつおをたたきにして食べた。玉ねぎと青ねぎを乗せて、ぽん酢としょうがでさっぱりと。なぜこの人が知っているのだろうか。
オレの考えは見すかしていると言わんばかりに「その前の日は野菜炒めだよね」とつぶやく。

「何なんですか」
「ごめん」
「…ストーカーですか」

この部屋には監視カメラでもついていて、逐一行動を見張られているのかもしれない。だが、仮にこの人がストーカーだったとして、オレはちっとも困らない。だから、その顔を今すぐやめろと言いたかった。
彼は軽く首を振って、オレの言葉を否定する。汗があごを伝ってのど元を通り過ぎ、鎖骨のくぼみに溜まったのが見えた。流れを追う途中つばを飲み込んだのか、のどぼとけが上下に動いて、やけに目についた。

「夢のなかなんだ」
「…はい」
「夢のなかで、ボクはシオンに触れられているんだ」

シオンの手のなかにいる。シオンの手は濡れていて、ひんやり冷たい。何回かボクの表面をなでててくれたのを心地よく思う気持ちはあった。ゆっくり、ゆっくり、上から下へ身体を沿う手に意識を寄せていると、どこに目があるのか知らないけど、灰っぽい、銀色の、何か光るものが見えるんだ。あ、って思った瞬間、ぬるっとそれがボクに滑りこんでくる。耳だって目と同じく、どこにあるのかさっぱりわからないのに、ぐちぐち音をたててボクの身を切り分けていく。それはシオンの手よりもずっと冷たくて、初めはぞっとした。でも慣れるんだ。ぬる、って肉に食い込んで、ああどうだったっけ、そのときのボクは肉じゃなかったかもしれないけど、とにかくボクの身という意味で、肉に入りこんでくる。そうだ、魚だ。ボクは魚だった。白くてまぶしいまな板のうえで、真っ青なシオンの顔を見ていたよ。シオンが、怖くて魚を捌けないだなんて、ちょっとかわいいと思っちゃった。こういうところ、知られたくないだろうなって思ったけど、ごめんな。そういう風に考える余裕が、あった。痛くはないんだ。身を通る刃物の感触がはっきりわかるのに、痛みは感じない。だんだんシオンの手があたたかくなっていくのもわかるのに、痛覚はない。もう死んでしまったものだからなのかな。魚以外にも、いろいろ、あった。キャベツのときもあったし、豚こまのときもあった。そのつど切られる感覚が違って面白いよ。形をそろえて油のしいたフライパンに入れられてさ。毎日じゃなかったけど、多分、シオンが料理するたびにボクはあそこにいた。ゆっくり手をかけられて、シオンに調理されていた。白い板のうえで、じっと、待ってた。だからボクはシオンが何を食べたのか知ってるんだ。
これ、夢の話なんだけどな。アルバさんは言った。真っ赤で、見ていて嫌な顔だったけれど、オレだってきっといい顔なんてしていないだろう。

「確かめようと思ったんだ。シオンが料理するところを隣で見ていようと思った。そうしたらボクはどうなるのかって」

どうなったんですか。口にできたかわからなかった。のどがぴったりはりついて、かすかすしていたから、声になったかどうかはっきりしない。こんなにものどは渇いているのに、身体中不快なほど汗で湿っている。聞き取れたのかそうでないのか、アルバさんはゆっくり口を開いた。

「今日はとり肉だったよ」

親子丼、美味しかったね。ありがとう。
吐き気がしてきた。アルバさんは真っ赤な顔をしているだけじゃなかった。何か、目元がゆるんで、とにかく嫌な顔だ。

「目の前で包丁を入れられているのはただの肉なのに、ボクはシオンの隣に立っているはずなのに、やわらかく身を切りきざまれていく感じがした。ボクって人間だったか、それとも肉だったか、わからなくなりそうだった。なんだか変なんだ、ボク。今日はシオンがボクを食べてくれるところまで感じたんだよ」

口のなかの体温がね…。舌がなぞっていくのが…。歯がボクを…。
その辺りからこの人が何を言っているのかよくわからなくなってしまった。もうとっくに理解なんて投げ出していたけれど、言葉の意味が右から左どころか、流れ出ていくこともせずひたすら頭のなかを巡っている。うずをまいてかき回していくのに、脳が理解してくれなかった。
視界が反転する。背中は見覚えのある床。目の前は真っ赤にとろけたアルバさんの顔があった。ぎゅっと手を掴まれて、予想通りというか、いつの間にというか、使いなれた包丁を握らされる。彼の熱い手がオレの手を包んだ。自分でもわかるくらいオレの手は冷たくなっていた。見せつけるかのように少しずつめくり上げられた薄っぺらなシャツの下にはきれいな肌色がのぞく。真面目に手入れしているだけあって切れ味のいい包丁の刃先が、彼の腹にくっついて赤い粒をつくっている。汗が垂れてきた。息が荒い。

「シオン、ボクを調理してほしいんだ。もう夢なんかじゃ、幻覚なんかじゃ、堪えられない」

オレの顔とアルバさんの顔が、鼻と鼻がくっつきそうなくらい近くて、けれど甘い心臓の音なんて聞こえなかった。いつ手元の刃物が彼の腹を裂いてしまうか気が気でないのだ。熱い手に包まれて、冷たいはずの手はじんわり汗をかきはじめている。
ついに二つのくちびるがふれあってしまった。ちっともよろこべない。オレのはかさかさで、彼のは異様なほど湿っていた。触れただけなのに、やけに生々しく、吐息は生あたたかい。

「シオン」

彼の声がぐわんと響く。部屋はきっと冷えているはず。二つの生き物が絡み合うここだけが気持ちの悪い湿度を孕んでいる。



「ねえ、シオン…ボクをたべて……」

ボクを切りきざんで、お前の腹に収めてしまって。
もう一度落ちてきたくちびる。分厚い舌が隙間をぬって口内へ押し入ってくる。きっと視界が赤っぽいのは近くにある彼の顔が赤いからで、動き回る舌と、握りしめた包丁の感覚だけがやけにはっきりしている以外、ずっと頭はぼやけていた。ぼんやりした思考で、何となしに、昨日食べたかつおのたたきのことを思い出していた。






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