1人の男がいた。 裕福な家庭に生まれ、何不自由なく暮らしてきた彼の家は大店として栄え、そして彼もその家業を継ぐものだと幼い頃から教え込まされてきた。商人は強かに、計算高く利己的に、常に損得を考えながら生きねばならない。 幼かった彼は、まるで人間のずる賢さを垣間見たような気分になって、自分で自分に嫌気が差していた。このままこうやって生きて、本当に自分はそれでいいのか。漠然とした感情は、幼い彼には理解ができなかった。 そんな時、町で娘に会った。粗末な着物を身に纏っているが、その表情は明るくいつだって彼の手を引いて前を歩いていた。無表情で分かり難い彼の僅かな心の機微を読み取って、彼女はいつも彼を引っ張った。彼にとって彼女は、眩しくて堪らない光のようだった。自分がどれほどに上等な着物を身に纏っていようとも、粗末な着物の彼女の方がずっとずっと美しく彼の目には写った。離れないようにと手に力を込めれば、彼女は振り返って満面の笑みを浮かべて握り返してくれた。あの笑顔を守るためなら、何だってしよう。幼い彼の心に芽生えたのは、小さく固い真っ直ぐな意志であった。 その意志を塗り潰すかのように、彼は彼自身の運命に呑まれた。商人として生きるために、彼は彼女を初めとする友人との交流を一切断ち切られてしまった。もう彼女のあの笑顔にも会えない、声を聞けない、名前を呼んでもらえない、底なし沼に引きずり落とされるような孤独感と絶望を再び味わうこととなった。 やがて、彼から表情が消えた。涼しい顔をしながら、常に頭の中は冷静沈着、損得を考えて行動に移す、そんな彼の嫌っていたものへと彼は成長した。ただ一つ、もう会えなくなる彼女の幸せだけを祈り、彼は彼女を思い出の中へと沈めた。 彼が立派な大店の若旦那へと成長して数年が経った。その頃には彼の中の彼女の思い出はほとんど薄れ、顔も朧気になりつつあった。江戸八百屋町、人の賑わう声の絶えない活気のある大通り。軒並み連なる店々と駆け回る子どもの姿。ふと彼は、自分自身の幼い頃を思い出して足を止めた。この大通りを過ぎて狭い路地へと入ったそこに、確か彼女の家は在った筈だ。無意識のうちに、足がその方角へと向けられる。沈み込んだ思い出を辿るように、前へ前へと足が進む。頭の片隅で記憶していた道を、体が思い出す。彼女は、元気だろうか。自分を覚えているだろうか。笑って暮らしているだろうか。様々な思いが駆け巡って、足を前へと急かす。期待と不安が入り混じって、少し苦しかった。 やがて見えた見覚えのある古ぼけた長屋で、彼は足を止めた。いつも彼女が出てくるのを彼女の家の前で、待ち惚けていた。奥から二番目のあの戸の向こう。ゆっくりとその引き戸の前に立てば、思いのほか胸がざわめいた。覚えているだろうか、もしも忘れてしまっていたら何と言おう、そんな迷いが彼の指先を渋らせた。戸を叩こうと握り締めた掌が、何度も戸惑う。やはり止めようか、何年も前に姿を消した自分を、覚えているわけがない。そう諦める心と僅かな期待が何度も何度もせめぎ合う。 「どうしたらいいんだ」 くぐもった嘆き声が、戸の向こう側から聞こえ、彼は一瞬動きを止めた。中から響くボソボソとした話し声に、思わず耳を澄ませた。 「返せる筈だったんだ、どうしても入り用で…まさか、こんな見返りが来るなんて…どうすれば、」 「どうすればって、あの子は何も悪くないのに、こんなこと話せるわけがないじゃないの…!」 「そうは言っても、借金を返せないなら娘を遊廓に売り飛ばすって金貸しは今にも乗り込んで来そうなんだぞ…かと言ってどう工面したって金なんざ手元に残ってないんだ…時間がないんだ、一体どうしたら」 娘を遊廓に、?耳を疑うような単語に彼は思わず眉をしかめた。娘とは、彼女のことだろうか。途端に脳裏に幼い頃のあの笑顔が蘇る。あの笑顔が、指先が、眼差しが、誰か他の男に向けらて、きっと手の届かない場所へ行ってしまう。曇ってしまう、あの笑顔を守ろうと決めたのは、一体誰だったんだ。 「借金のカタでリョウを遊廓に売るなんて選択肢しかないなんざ、あんたはそれでも父親なのかい!?」 「仕方ないだろう!じゃあ他にどんな手が…!」 リョウは、俺が守る。 例えそれが、 どんな手段になったとしても。 「失礼する」 ガラリと無造作に戸を開ければ、暗がりで二人の夫婦が驚いた顔を彼へと向けていた。どちらも随分と年を取ってはいるが、幼い頃見た彼女の両親に間違いはなかった。スッと2人を見据えて、唐突に彼は切り出した。 「話は聞かせて頂いた。立ち聞きなど不躾で申し訳ないが、所用でこちらへ参らせて頂いた折、偶然話を耳にした」 「あ…あんたは…」 「俺は大黒屋の息子、久々知兵助だ。それより、今の話を聞かせてくれ」 「だっ…大黒屋…!?なんでそんな大店の息子が…それに兵助って…もしかして、」 じっと夫婦の瞳が探るように彼の姿を見つめる。やがて妻がハッと何かに気付いたかのように目を見張ると、怪訝そうな口振りで尋ねた。 「あんた…まさか兵助かい…?小さい頃、リョウがよく連れ回してた…」 確信を持ったようなその呟きに視線だけで頷いて、未だに呆けている夫へと視線を向ける。 「金貸しに娘を担保にされたのか」 「え…あ、あぁ…俺はそんな話了承した覚えはないんだが、近い内に金が用意できなきゃ娘を売るしかねぇって…」 「ちょっと…あんた!」 「勿論俺だって売る気はねぇさ!だがどうやってもその金貸しに返せる金なんざ工面できねぇんだ」 そう言い捨て夫は頭を抱える。妻は俯いたまま顔を上げなかった。静寂が空間を満たし、やがて彼は僅かに身じろぐ。衣擦れの音が微かに響いて、夫の傍らに彼は膝を折った。 「…いくらだ」 「は…」 「その借金、いくらになる」 「ま、待て待て…たった今返す金もないって言ったばっかだろうよ!大黒屋の若旦那から借り受ける余裕なんざ俺らには、」 「その借金、俺が肩代わりする」 「ええ…?」 夫同様に慌てた様子で妻が声を漏らす。暗がりで身を寄せるようにうずくまった夫婦は互いに顔を見合わせると、怖ず怖ずと金額を口にした。 「分かった。期日までに俺から金は返しておこう」 「…そんな、あんた…いいのかい…」 「その代わりに、条件がある」 「条件、?」 その言葉にサッと夫婦の顔色が青くなる。そんな2人を相変わらずの無表情で見返して、淡々と彼は条件を口にした。 「借金は肩代わりするが、リョウは俺が貰い受ける」 「…はぁ?!」 「そ…それじゃ、身売りとどう違うってんだい!」 「勘違いするな、俺は商人だ。見返りもないのに肩代わりなんてしない。ただ、これはお前達が決めることだ。受けるか受けないかはお前達次第。娘を借金のカタに遊廓へ売るか、それとも俺に売るか」 冷たい光の宿る瞳が、2人を見据えた。押し黙ったまま固く拳を握る夫を、心配そうに妻が見守る。 非情な選択を突き付けたことは彼にもよくわかっていた。優しい彼女の両親が、娘を自分達のせいで手放すことがどれほどに辛い選択かもよくわかっていた。けれど、それでもどうしても、彼は彼女を手に入れたかった。それがどれほど冷酷な手段であろうとも、彼女の髪の一本すらも他の誰かに渡したくなどなかった。恨まれても憎まれても泣かれても、それでも切望するのは彼女ただ一人だ。 「…わかった」 「…あんた!?」 苦虫を噛んだような表情で夫は小さく呟く。その言葉に、彼は薄く笑みを浮かべる。 「遊廓よか僅かでも縁のあるお前のとこの方がまだマシだろうよ…」 「でも…っ!」 「頼むぜ大黒屋の若旦那、あいつを少しでも幼なじみの友人として思ってくれるなら、温情を見せてくれ」 縋るような声音で夫は彼を真っ直ぐに見つめる。その視線を受け、彼は一度目を伏せると淡々とした表情で顔を上げ、視線を一瞥した。 「名目は下働きとして雇うが、買ったからには俺のどうしようと勝手だ。だから、もしも娘が心配なら、取り返しに来い」 「…取り返す?」 彼の言葉に、夫婦はポカンとしてみせた。 「利息は付けないでおく。俺が肩代わりした借金をそっくり返すことができたら、リョウは自由だ」 「…それじゃ…」 「この町を離れて、余所で金を作れ。娘を売ったんじゃ体裁も悪いだろう」 「…旦那、」 スッと立ち上がると、2人を見下ろしながら彼は笑う。鬼と言うだろうか、非道と罵るだろうか、けれど、それでも、あの光を手に入れられるなら。2人が取り返しに来てしまう前に、彼女を自分から離れられなくしてしまえばいい。真っ黒な感情が心を占める。眩しい彼女の笑顔を塗り潰していくように、ドロドロとした熱が染めていく。ほんの片隅に残った、罪悪感という痛みすらも麻痺させて。 俺のことを、 許してくれなくていい 恨んでくれていい 見てくれなくてもいい それが俺の罰だ。 自分の私欲のために彼女を家族から引き裂き、都合の良いように言いくるめて俺のものにした。罰ならば、俺は甘んじて受け入れる。 けれど、 どうかもう一度 君が笑ってくれるのなら → |