ぱしんと口元を何かに覆われて、誰かが背後に立っていることに気付いた瞬間に羽交い絞められる。そのまま抵抗する間もなくあれよあれよという間にどこかの部屋へと引きずられながら、私はあっという間の出来事に目を白黒させていた。くぐもった声が漏れる。ぴたりと私の口元を塞ぐそれは誰かの掌だった。目の前で閉ざされる障子を目線だけで追えば、ようやく私を拘束していたその力が緩む。

「っ…は!だ…誰、」

慌てて振り返って私をここまで引きずってきた人物を振り仰げば、そこにいたのは私がさっきから必死に探し回っていた人物であった。

「…兵助…」

驚くぐらい白い肌に、濃紺の着物がまるで対比のように鮮やかで、けれどその表情からは何の色も読み取れないほどに無表情だった。

「リョウ、雇い主を大声で呼び捨てるって普通は考えられないぞ」

「あ…あんたがどこ探したって見つかんないからでしょ…!」

「俺は生憎暇じゃないんだ」

ツンとした雰囲気を醸し出す目の前の男に若干カチンと来るものの、ここは冷静にならなければいけない。聞きたいことは山ほどあるのだ。薄暗い部屋の中は随分と静かで、私達の衣擦れの音しか響かない。どこか遠くで誰かが廊下を歩いていく音や誰かを呼ぶ声が聞こえるけれど、まるで遠い。ああ、あの時みたいだ。私はふと思い出した。一番最初に兵助が私を迎えに来た時、あの時も町の喧騒も誰かの声も遠くで響いてて、まるで別の世界のようだった。兵助はまるで静寂を纏っているようだ。この男の周りはいつだって全ての日常が遠ざかる。それは、兵助の雰囲気のせいもあるのかもしれないし、人一倍冷たいようなこの独特の空気のせいもあるかもしれない。けれど、私は知りたい。兵助の真意も、私の身に起こった真実も。兵助の口から知りたいのだ。

「兵助、正直に答えて」

「…………?」

「私の家族に、本当は何が起こったの…?」

私の言葉に、兵助は少しばかり目を見開いたように見えた。けれどそれは一瞬で、僅かに見え隠れした表情の色すらも塗りつぶすように、兵助はスッと瞳を伏せた。

「だから、言っただろ…お前の両親は借金をしてて、その借金のカタとしてお前が俺のところに、」

「違う、本当はそうじゃないでしょ。もう、私全部知ってるから」

「………………」

「本当は、私の両親が借金をしてたのはこの大黒屋じゃなくて、どこかの悪徳金貸しで、その借金を返せなくなったせいで私がその金貸しに連れて行かれそうになっていたのを、兵助が借金の肩代わりをしてくれたお陰で免れた…本当はそうなんでしょ?」

兵助の紺色の着物を掴みながら詰め寄る。覗き込むようにその瞳を見上げても、兵助はじっと視線を合わせるだけで何も答えてはくれない。これでは埒が明かない。兵助の着物を引っ張る手に力を込めれば、薄っすらと皺が寄っているのが分かった。私はただ、真実を知りたいのだ。自分の状況が分からない今の現状にはとても納得などできない。

やがて、小さく兵助の唇が開く。

「お前は俺が買った、それが事実で真実だ」

それで終わりだと言わんばかりに私の手を振り解くと、兵助はその部屋を去ろうと背中を向けてしまう。

「ちょっと待って!」

咄嗟に私は兵助の腕を掴む。違う、そうじゃない、胸の中で蟠る感情に理由を付けたくて、私は無意識に兵助を引き止めていた。

「…お願い、教えてよ兵助…じゃないと、私…兵助とちゃんと向き合えないよ…!!」

兵助の腕を掴む私の指先に力が篭る。俯いた私の視界には私と兵助の手が写る。小さい頃はほとんど違いなんてなかったのに、今じゃこんなに違う。大きさも手の形も何もかも違う。時の流れと共に変わってしまった何かがあるように、私と兵助の関係も随分と変わってしまった。立場も関係も、何もかもだ。

「…向き合う必要なんかないだろ」

「……………」

「お前と俺の関係は雇い主と雇われる側、それだけだ」

突き放すような兵助の言葉が、胸に突き刺さるようだった。時の流れが人の心すらも変えてしまうのなら、私と兵助の間にはもうなんの繋がりもなくなってしまった。思い出も何も、私達の間には残されていないのだろうか。ふと、指先の力が抜けてするりと兵助の腕を掴んでいた私の手が離れる。重力に従って落ちる私の指先が静かに揺れた。一歩、後退る。そしてまた一歩。兵助との距離が開く。

「もう…いい…」

ポツリと部屋に私の力ない声が落ちる。障子越しに差し込んだ光が薄っすらと畳に影を落としていた。俯いた私の視界の端に、兵助の着物の裾が写り込む。その紺色が徐々に滲んで、景色が歪んだ。悔しくて悔しくて唇を噛み締める。畳にポツリと涙が音を立てて零れ落ちた。

「…リョウ、」

「ごめんなさい…もう、いいや…」

「…………」

「ちゃんと、しばらくしたら今までどおりに、文句言いながらちゃんと働く下働きのただの女に戻るから、だから」

声が震えた。顔を上げれば、兵助がいつもの無表情に僅かに驚きの色を見せながら、こちらを見つめている。その瞳を見つめ返しながら、諦めたように笑って見せた。


「今は独りにして…」


私には、何も分からない。けれど、きっと両親はどこか遠くで生きている。何か事情があったのだ。そして、私もこうして生きている。それなら、私は私の方法でいつか必ず居場所を突き止めよう。それでいい。兵助はもう、私の幼馴染だった兵助ではないのだ。思い出も何もかも、もう胸の奥深くへ仕舞い込んでしまおう。期待などするから悪いのだ。他人に頼るからいけないのだ。私は、今ここで精一杯生きていこう。兵助に背を向けて、部屋の奥でぐいっと涙を拭った。背後でゆっくりと障子の開く音がする。兵助の動く気配がして、思わず固く瞳を閉じた。兵助がこの部屋を出て行ってこの障子が閉まったら、そうしたら、ちゃんとケジメをつけよう。兵助は雇い主、そして私は雇われた下働き、もう気安くなんてできる間柄じゃないんだ。寂しくて寂しくて心が軋んだように痛む。もう誰もいない、優しかった両親も、気弱で泣き虫で、でも大好きだった私の幼なじみも、


―――誰も、


差し込んだ太陽の光が、一瞬陰った。畳の上を黒い影が揺らめいたかと思えば、次の瞬間私の体はグッと何かに引き寄せられていた。視界が濃紺で一杯になる。体温が私を包み込んで、背中に回った腕に力が込められる。呼吸を忘れて、息が詰まる。真っ白に塗り潰された思考は、やがて耳元に落とされた声を拾い上げた。

「……ごめん、」

「………兵助…」

「リョウを1人にしたかったわけじゃないんだ。俺の我が侭のせいで、泣かせてごめん。苦しませて…ごめん」

懺悔のような響きを滲ませながら、兵助は何度も何度も私へとごめんと呟く。兵助の顔を見たくても、強く抱き締められてるせいで私の視界には紺色の着物と兵助の滑らかな首筋しか映らない。

「本当のことを話せば、リョウは絶対に俺を軽蔑する。リョウの言う真実ほど、俺はいい奴じゃない。ただ、欲しかっただけなんだ」

「……何を……?」

私の問い掛けに、兵助が一瞬強張るように腕の力を強めた。やがて、ゆっくりと熱が離れていく。私の両肩を握り締めながら、兵助は少しだけその無表情を緩めて、泣き出しそうに微笑んでみせた。それは、まるで幼い頃のような、下手くそででも私の大好きな、兵助の笑顔だった。


「…俺は、リョウが欲しかっただけだ」


ただそれだけだと、こちらが苦しくなりそうな程に切なげな兵助の声音に、ボロリと涙が頬を伝った。私が欲しかった、だから兵助は何かしらの手を使って私を買った。詳しいことなど何も分からない。真実など何も分からない。ゆっくりと兵助の指先が私の目許をそっとなぞった。冷たい熱に、背筋が一瞬ピクリと強張る。指先が、その掌が、腕が、私を引き寄せる。

「許してくれとは言わない」

長い睫毛の影が頬に落ちて、兵助の瞳が静かに瞬きを繰り返す。まるで金縛りに遭ったように、指の先までピンと張り詰めて動けなくなった私の額と兵助の額が近付く。

「リョウは俺を憎んでくれても構わない」

間近で見た兵助の瞳が、吸い込まれそうな濃紺に見えた。黒よりずっと寂しい色。静寂を纏った兵助は、誰よりずっと孤独に見えた。

「俺は…、」

「………」

「リョウが好きだった…いや、」

緩やかに兵助が首を横に振る。

「今もずっと…リョウが、」

その先は、吐息のような囁きで私の耳には届かない。けれど、零れ落ちた言葉の先が私の脳を麻痺させてしまったかのように、もう何も考えられなかった。まるで私に返事を言わせないかのように、兵助の唇が私の唇へと落とされる。パタリと私の頬が雫に濡れ、頬を伝って顎先から零れ落ちた。

あぁ、雨のようだ。

唇と同じ温度のその涙の理由を探りながら、私はゆっくり瞳を閉ざした。




地獄にもは降るらしい





障子の向こう側に広がる空は、寒気のするほどに青く晴れ渡っていた。


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