「お前、今日から俺の家の店で働け」

蛻の空になった家の中で、呆然と突っ立ていた私の背後で低い声が響く。陽が翳って橙に染まった光の中で、土間の地面に長い影が落ちている。今朝のまま、何も変わらない我が家のその風景から、まるでごっそりと切り取ったかのように私の両親の姿だけが抜け落ちていた。ぐしゃりと私の手の中で握り締められた書置きには、ただ一言。

『姿を眩ませます、不甲斐ない父母を許してください』

というどこから突っ込めばいいのか理解不能な言葉が並んでいた。大事な一人娘をおいて姿を眩ませるってどういうことだ。意味が分からない。不甲斐ないというかそれ以前の問題だよ。説明して欲しい。私の今の現状も、これからどうしてどうやっていけばいいのかも、そして。今背後で見知らぬ男が放ったこの言葉の意味も。

「……………働く?」

黄昏を告げる鐘がどこか遠くで響いているのが耳に届く。緋の光が逆光になって、その男の人が誰なのかも影になって分からない。眩しさに目を細めながらそう呟けば、入り口に立っていたその人が一歩屋内へと踏み入る。近づいた距離に、思わず身構える。伸びていたその人の影が、薄暗い我が家の陰に混ざる。物怖じもせずに、ズカズカと踏み入れられて後退っていた私の逃げ場を失う。おかしい。ここは私の家のはずだ。両親は確かにいないけれども、こんなに赤の他人に押し入られる筋合いもへったくれもない。思わずギッとその姿を睨み付けてやるが、その後に思わずあんぐりと口を半開きにしてしまった。

「…………へいすけ?」

その綺麗な無表情には見覚えがあった。幼い頃からまるで女の子のような顔をしていて、長い睫毛と柔らかいクセ毛が彼の特徴だった。小さい頃は遊び仲間だったその少年の面影がほんのりと残っているその表情を見上げながら、思わず指をさしてしまった。私の驚いたような声音に、一瞬へいすけらしき人物の片眉が動く。パチパチと瞬く私を相変わらず何を考えているのか分からないその両目が射抜いて、やがてそっと反らされた。なんだこの反応…。僅かながらもイラッとしてしまう。

「へいすけだよね?」

「………あぁ、」

「何そのそっけない態度、大体さっきの何なわけ?働くって、なにさ一体?そもそもなんであんたここにいるの?小さい頃はリョウちゃんリョウちゃんって後ろくっついてきてた癖にいつのまにか仲間に入らなくなって疎遠になるし…それが久々に会った一言目が働けって…」

「リョウ」

ズラズラ不満を並べ立てる私の言葉を遮るように、へいすけが私の名前を強く呼ぶ。渋々口を閉じてへいすけを見返せば、僅かも表情を変えないで強い眼光で私を見つめていた。

「お前の両親は借金をしていた」

「………は、」

間の抜けた私の声が響く。うちは確かに貧しかった。朝から晩まで必死に働いて家族三人で慎ましやかに暮らすには精一杯の稼ぎしかなかった。けれど、毎日が充実してて何の不満も辛さも無かった。この狭い長屋で家族三人、必死に力を合わせて生きてきたのだ。借金なんて、そんな話聞いたこともない。動揺する私の唇が僅かに震えた。

「……嘘」

「嘘じゃない、これが証文だ」

すっとへいすけが懐から一枚の紙切れを取り出す。ひったくるようにその証文へ目を落とせば、何のことは無い。そこに記された名前は紛うことなく私の父親のそれであった。

「…………」

「これで、分かっただろう」

戦慄く私の手から、するりと証文が抜き取られ再びへいすけの懐へ仕舞い込まれる。今見たことを、誰か嘘だと言ってはくれないだろうか。背筋をヒヤリとした何かが這い回り、どっと冷や汗が吹き出す。わんわんと耳鳴りのように遠い町の喧騒が響いているのに、ここはまるで別の世界のようだった。

「だって…、え、なんで…私そんなの知らない…」

「知らなくても事実だ、お前の両親は借金の片にお前を売った。それだけだ」

「…………っ!」

カッと一瞬にして頭に血が上って、思考がまるで真っ赤に染まりあがった。気が付けば、私はへいすけのその無表情の頬を思い切りひっ叩いていた。手のひらがじんじんと熱い。じわじわと視界が潤んで、情けなくもボロボロと私の瞳から何かが零れ落ちていた。震えかける唇を噛み締めて、ぎゅっと眉根を寄せる。頬を僅かに赤く染めたへいすけは、怒るでも何でもなくただその無表情を少しも歪めないで再度私へと視線を向けた。荒い呼吸がその場を満たす。肩で息をする私を冷ややかに見下ろして、へいすけがゆっくりと瞳を伏せた。

「何も知らないくせに…勝手なことばっか言わないでよ…っ」

「………………」

「私の親は…、借金のかたに娘を売り飛ばすなんてそんな薄情なんかじゃない…!あんた、何かうちの親にしたんじゃないの…っ!?そうじゃなきゃ何でこんな目に遭わなきゃいけないの!?何とか言いなさいよ、へいすけぇ!!!」

私の金切り声が響いて、へいすけがそっとその瞳をあげる。黒目がちなそれを真っ直ぐ見つめても、何の感情も読み取れない。ねぇ、へいすけ。あんたは確かに昔からよく分からないやつだったよ。でも、もう少し表情豊かだったじゃん。なんでそんなに能面みたいになっちゃったの。何があったの、どうして幼い頃に私の前からいなくなったの。滅多に笑わないあんたが、ほんのり笑って私の名前を呼ぶ時が好きだった。私が、へいすけの面倒を見てあげなきゃって、馬鹿みたいにお姉さんぶる私の後ろをちょこまか追いかけてきた懐かしい記憶が段々と色褪せていく。これは、誰。私の知ってるへいすけじゃない。

「誰…、あんたは私の知ってるへいすけなんかじゃない…一体あんた…誰なわけ…」

「俺は、」

ガクリと膝が地面に落ちる。全身の力が抜け落ちる。もう立てない、動けない、悔しい。指先が土を掻く。力なく夕日の中に浮かぶ黒い影を見上げる。影が私をゆっくりと見下ろした。その眼光に冷たい光が写る。銀色の光。温度のない冷たい輝き。漆黒が揺らいだ。


へいすけが、蹲る私と目線を合わせるかのようにそっと膝を曲げる。片膝を付きながら、その指先が私の頬にゆっくり伸ばされた。力なくそれを目線だけで追いかける。上等らしいその着物の袖から伸びる腕はやはり華奢だ。けれど、私とは違う。そして、昔のようなひ弱さももうない。頬に伸びた指先が私の顎の先を掬う。上を向かされた私の瞳をへいすけは覗き込んで、ゆっくりとその唇が動いた。

「…俺は、廻船問屋『大黒屋』店主の息子、久々知兵助」

「……廻船、問屋…?」

廻船問屋『大黒屋』といえばこの江戸でも大層な大店の名である。その店主の息子、と言えばそれは跡取り息子ということである。つまり、私の知っているあのへいすけは、何と私とはとんでもなく住む世界の違う、坊ちゃんだったというわけだ。目を丸くして絶句する私に、兵助は薄っすらと微笑む。思わずギクリとしてしまう。その笑顔が、私の知っている兵助と重なった。やがて、柔らかかったその笑顔は、少し意地悪そうに歪む。反射的に逃げ出そうと身じろぐが、その瞬間にグワシッ!とでも聞こえそうなほどに強く顎を掴まれてしまう。カチンと身が竦んで固まる。ぐんと近づいた兵助の低くて妙に艶っぽい声が耳に落とされた。



「リョウ、お前を貰い受けに来た」



地獄にもは咲くらしい




修羅の花とは申しませんが、花のように美しかった幼馴染は冷たい鬼となって舞い戻って参りました。


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