作兵衛は倒れ込むことなど意に介さず、ただ目の前にあるリョウの唇に吸い付いた。
 思考はほとんど動いてなくて、ただ腕の中のやわらかな存在に夢中だった。
 リョウは目を開いて驚きを示したが、けれど、抵抗はなかった。
 作兵衛はすでに色の実技は受けているから、初めてではない。
 けれど、リョウは少なくとも授業は受けていないし、実家にほとんど戻っている様子はないので、許婚と関係を持っている可能性も低いから、たぶん、初めてだろう。
 作兵衛が舌先で促しても、唇は開かなかった。
 だから、少しだけ、唇を離してみた。
 思った通りに、呼吸のために唇が開いたので、そこにもう一度、唇を押し付ける。
 今度は、唇を割るのは簡単だった。
 逃げる舌を追いかけて、絡めて吸うと、鼻を抜けるような短い声が漏れた。
 リョウが首を振って、初めて抵抗らしいものが見えたが、作兵衛は止まらなかった。
 そっとリョウの歯が作兵衛の舌に触れたとき、とうとう、リョウが口吸いに応えたのかと思って、背筋を震えが走った。
 けれど、リョウの歯は少しずつ力が加えられていく。
 それが抵抗なのだと悟って、作兵衛はようやく、頭に上っていた血が下がっていった。

 舌を引いて唇を離すと、涙をいっぱいに溜めた目でリョウが作兵衛を睨んだ。
「ど、して……、何で、こんなこと、するの」
 蒼白になった顔色も、震える声も、作兵衛を打ちのめした。
 言い訳なんて、そんなものができるはずがなかった。
「ごめん」
「振り向かないでって、言った、のに」
「ごめん」
 そう言いながらも、リョウの体温が、触れ合う素肌の感触が、作兵衛の本能を刺激するのは止まらなかった。
 作兵衛は、片手でリョウの顔に乱れてかかった髪をかき上げた。
 小さな顔だ。
 その肩も、作兵衛の下敷きになったままの身体も、絡まった足も、何もかもが小さくて細い。
 額を合わせると、リョウがびくりと震えたのがわかった。
「ごめんな」
 もう一度、目を閉じながら囁いた。
 そして、目を開けばリョウの泣き出しそうな表情が映った。
 それでも、作兵衛にはリョウを手放す選択肢など、もう見えなかった。
「ごめん、……でも、好きだ」
 その言葉に、リョウが目をいっぱいに開いた。
「え?」
「好きだ」
 もう一度、囁いた。
「許婚がいるのも知ってる。それに、好きなら何して良いってわけじゃないのもわかってる。だけど、離したくない」
 頬を親指で撫でると、蒼ざめた頬に色が少し戻った。
「好き……?」
「ああ、リョウ、おまえが好きだ」
「嘘! どうしてそんなこと言って、誤魔化そうとするの!」
 予想外の方向へ激しい反発を受けて、作兵衛は眉を寄せた。
「だって、みんながどう噂してるかなんて知ってるもの! 鉄の女だって!」

 確かに、愛らしい容貌に反して、表情は薄いし、そのせいで言動は妙に硬く見えるし、腕も立つし、気性が荒くて近寄り難いので、鉄面皮をさらに揶揄してそう言うやつらがいるのは本当だ。
 けれど、作兵衛はその下に隠されたリョウの優しいところも、一生懸命に何事もこなそうとすることも知っている。
 そうでなければ、どうして自分よりも大きくて重い作兵衛をここまで引きずってきて、あたためようとするのだ。
 罠を解除する役割の人間に、それを労う言葉をかけるのだ。
 そこで、作兵衛はリョウの鉄面皮と呼ばれる表情が、今、崩れ落ちそうなことに気づいた。
 泣き出しそうに表情を歪めて、感情的に叫んでいる。

「そいつらは、リョウを良く知らないだけだ」
 額を合わせたまま、宥めるように作兵衛は努めて静かな声で言った。
「少なくとも、そいつらよりはリョウを知ってるよ」
 リョウは唇を震わせて、作兵衛を見上げている。
「しんべヱが腹すかしてるときに、何か食いもんやってただろ?」
 あれはまだ、去年のことだ。
「喜三太のなめくじも、逃げ出したのを教えてやったことがあるだろ?」
 それは夏だった。
「栗子が先輩と大喧嘩したとき、宥めたのもおまえだろ?」
 初春の冷たい雨の中を駆け出した栗子を追って、宥めて連れ帰って来たのを知っている。
 そのときにはもう、好きだと自覚していた。

「リョウ。俺を女を手篭めにするようなやつだと罵るのは良い。その権利はリョウにある。でも、俺がリョウを好きなのは本当だ。嘘じゃない」
 作兵衛がこれからしようとしていることは、リョウの意思がないと言う点ではまさに、女を手篭めにすると変わらない。
 最低だ。
 それでも、やっぱり作兵衛は止まれなかった。
 ゆっくりと唇を近づけた。
 リョウは避けなかった。
 ただ静かにまぶたが下りて、目尻から涙が零れ落ちた。
 一度軽く重ねた唇を離し、作兵衛は涙の跡を唇で辿った。
「好きだ。一度だけで良いから、俺のものに、しても良いか?」
 それが自分本意な話だと、作兵衛も自覚していた。
 しかし、今、ここで、リョウを求める衝動を止められる自信もなかった。
 それでも、そこに愛情がなくても、リョウの同意が欲しかった。
 許されたかった。



 作兵衛がリョウを好きだと囁いたとき、どうしてそんな下手な嘘を言うのだろうかと思った。
 許婚への嫌悪から、笑顔を封じたらその他の多くの表情も自然と閉じられた。
 影では、可愛い顔してるのに、表情も硬い、声音も硬い、態度も硬いと鉄の女と呼ばれているのも知っている。
 多くの男は、やわらかい印象の女が好きだ。
 だから、それを封じてしまえば、あの男も最低限しか寄って来ないだろうと思ったし、他の男もほとんど寄って来なくなった。
 作兵衛も、単純に欲情したと言えば、一発殴ってそれで終わりだったのに、好きだなんて嘘を吐くなんて、最低だ。
 けれど、作兵衛は封じた下にあるリョウを知っていると言う。
 作兵衛の話は、どれも身に覚えのあるものだった。
 人目につかないように気をつけていたのに、どうして。

 ――好きだから。

 すとん、とその言葉がリョウの内側に落ちてきた。
 だからと言って、好きだと告げられただけで、作兵衛を好きになれるはずがなかった。
 もう一度、作兵衛が好きだと囁きながら顔を近づけてきたとき、けれど、リョウは避けなかった。
 どうなっても良いと言う諦めが、リョウを支配していた。
 どう頑張っても、作兵衛が止めない限り、リョウが逃げることは無理で抵抗は無駄だった。
 今、目の前に居るのが、リョウを道具としてしか見ていない許婚ではなくて、好きだと言ってくれる相手な分だけ、救いがあるかと思った。
 だから、リョウは作兵衛の問いに、ただ一つ頷いた。

 作兵衛は、たぶん、優しかったのだと思う。
 リョウに触れる手は、性急だったが、乱暴ではなかった。
 何度もリョウの名前を呼んで、作兵衛のその声だけがリョウには頼りで、苦痛の合間に押し上げられる初めての快楽にただ翻弄された。

 上ずった声と悲鳴と、零れる涙と、わずかな抵抗をものともせず、作兵衛はリョウの身体にのめり込んだ。
 初体験だった実技のときにだって、こんなに夢中ではなかったと思う。
 小柄だが鍛えられた身体は、やわらかくて弾力があって、どこもかしこも触れる度に熱くなっていった。
 揺れる瞳が頼りなく作兵衛を見上げていて、それを守ってやりたい一心も本当で、その身体を強く抱き締めた。

「リョウ」
 長くて短い時間感覚の麻痺した状態で、繋がったまま優しく名前を呼ばれて、リョウは呼吸が整わないまま、ぼんやりと作兵衛を見上げた。
 ここへ運び込んだときは、冷たくて蒼ざめていた作兵衛の顔は、今は上気して双眸がぎらぎらと光っていた。
 けれど、その瞳の奥はリョウの知っているわかりやすい優しさを失っていなかった。
「辛いか?」
 力が入った下半身に対して、投げ出された両手を引き寄せながら、作兵衛が囁いた。
 そんなもの、辛いに決まっている。
 けれど、言葉の代わりにリョウの瞳から涙が溢れた。
 次から次へと流れ落ちる涙に、作兵衛がぎょっとした。
「悪い、やっぱり止めるか?」
「止めなくて、良い、よ」
 涙と乱れた呼吸のせいでかすれた声で、リョウは答えた。
「それなら、どうしてそんなに泣くんだよ」
 指先で涙を拭ってやりながら、作兵衛は再び額を合わせた。
「作兵衛のせいで、自分の将来がわかっちゃった」
 リョウは作兵衛の視線から逃れるように、目を閉じた。
 暗闇と同時に深い絶望が、リョウに訪れた。

「あいつが嫌い。でも、作兵衛から逃げられないって諦めたみたいに、最後には決められた通りにあいつに嫁ぐのよ。どんなに嫌いでも、嫌でも、諦めるの」

 自分の手を作兵衛から取り返して、作兵衛の顔を押しやり、リョウは自分の目元を手の甲で覆った。

「結局、私は逃げられない」

 涙が手の甲で塞き止められて、目元がぐずぐずに濡れた。
 それも惨めなら、変えられない自分の人生も、この状況も、すべてが惨めだった。
「作兵衛のばかぁ……、っん、あぁぁ」
 八つ当たりでしかないが、リョウは絞り出すように言うのと同時に、作兵衛が腰を動かしたので、息苦しさと痺れるような感覚が四肢を走った。
「リョウ、選べよ。嫌だって言うならそこから連れ出してやるから、俺を選べ」
「や、待っ」
「今持ってるすべてを捨てて、俺を選べ」
 両手を顔から引き剥がされ押さえつけられ、涙で揺れる視界に作兵衛が映った。
 苦しそうに表情を歪めて、切なそうに、作兵衛が唸るように告げた。
「嫌いなやつのとこに嫁ぐって聞いて、離せるかよ」
 作兵衛が深く腰を落としたので、圧迫感にリョウの呼吸が一瞬、止まった。

「そいつより、俺が嫌いで憎いなら、仕方がない。でも、そうじゃないなら、リョウ、おまえが、俺を選んでくれ……! どこにでも、連れ去ってやるから、頼むから、幸せになれないようなこと、言うなよ」

 言い募りながらも作兵衛の動きは止まらないので、リョウは答えを返すことができない。
 二人分の乱れた呼吸が、遠くに聞こえる雷と雨音の間に響く。
 リョウは、作兵衛の動きに堪らず、その背中に手を回してしがみついた。
 それに応じたかのように、作兵衛の腕がリョウを強く抱き締めた。

 あの濁流の中で、意識を半分失った状態でもリョウを離そうとしなかった、この腕を信じてみたい気がした。
 少なくとも、作兵衛はその提案が上手くいかなくても、リョウのせいにはしないだろう。
 あの許婚ならば、リョウのせいだと怒鳴り散らしそうだが。


 


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