「久々知くーん!」 購買へと向かうその時だった。背後で響いた声とその名前に、私は思わず振り返る。ちなみに兵助君は教室にいる。盗み見ていれば、先程声を掛けたらしい女の子が教室の出入り口付近でそわそわと待っていた。やがて兵助君が現れるとパッと顔を輝かす。まるで一目瞭然なその姿に、私は何となく悟らざるを得なかった。あぁ、あの子は兵助君が好きなんだ。 兵助君は、非常にモテる。 見た目は勿論、落ち着いてるし優しいし頭も良い。そんな完璧な兵助君とうっかり婚約した私。学校内では婚約者と言うのも微妙な気がして、ただ単に付き合っていると通しているが、それでも兵助君に言い寄る女の子は少なくない。恐らく、相手がこんな私みたいなのだからなのだろうけども。そこまで言って悲しくなり、溜め息を零した。 ちらりともう一度視線を送れば、女の子が兵助君に何かを渡しているのが目に入った。もやっと胸が何だか苦しくなる。でも仕方ない、だって兵助君カッコいいし優しいもんね。その光景に背を向けて、購買へと足を進める。モヤモヤが晴れなくてどこか苦しいままだった。 もしも、だ。 兵助君が私よりずっと好きな女の子ができて、私なんかもういらないと言われてしまったら、私…どうしたらいいんだろう。自販機にお金を入れながらぼんやりと考える。 きっと兵助君と出会う前の生活に戻るだけだ。家から兵助君がいなくなって、私はきっと違う人を好きになって。優しくて普通の、ただの恋愛を。 『リョウ』 ガコン、 出てきたのは飲めもしないブラックコーヒーで、ぼやけた視界のせいでボタンを押し間違えたことに気が付く。ああ馬鹿だ私。 「あれ?珍しいの買ったな」 「間違えちゃって…」 「しかも無糖だって、リョウ飲めるの?」 「ちゃんと飲むよ」 重い足取りで教室へ戻れば、きょとんと兵助君が私の手の中のコーヒーを見つけて首を傾げる。苦笑いをしてみせながら机にコーヒーを置く。 「そうだ」 「?」 兵助君が自分の鞄から何かを取り出す。透明な袋の中に詰まっているのは小麦色のクッキー。それを目にした途端に私の心臓がドキリと音を立てる。 「これ、さっきもらったんだ。調理実習で作った豆乳クッキーだって。食べたことないから分かんないけど、クッキーって甘いんだろ?苦いなら、これで誤魔化せば、」 「……………」 「……リョウ?」 押し黙った私を覗き込んで、兵助君がギョッと目を丸くするのが気配で分かる。でももう、それどころじゃない。苦しくて苦しくて、堪らない。 ただ、クッキー貰っただけなのに。何をそんなに気にしてるの? 頭では分かっても心がちっとも付いて来ない。ぎゅっと手のひらを握り締める。そうでもしないと大声で泣き出してしまいそうだった。ポロリと涙が零れた拍子に、私は勢いのまま教室を飛び出す。 「リョウ!?」 泣くなんて、子どもみたい。持て余したこの感情を、私は知らない。 ばん! 勢いよく屋上の扉を開いてきつく握ってた手のひらの力をようやく緩めれば、ボロボロ頬に涙が零れ落ちた。どうしようどうしよう、兵助君にもういらないって言われたら。私の他に好きな人ができたら。小さい頃に出会ったのがもしも、私じゃなかったら。そしたら今彼は私の隣にはいないのだ。 「…そんなのやだ」 想像して悲しくなるって最早収拾が付かない。ポツリと呟いた言葉に呼応するようにざぁっと風が吹き抜ける。と、思ったけれど、これは。 目も開けられない程の突風。ぎくりと私の体が固まった。後ずさろうとする私の足が踏鞴を踏む。腕が強く引かれた。 「何で逃げるの、リョウ」 「…兵助君」 むっとした表情の兵助君に捕まり、気まずすぎて直視できない。僅かに離れていた距離すらも詰められ、私の頬包んだ兵助君の手に顔を上向かされる。 「俺何かした?」 「兵助君は…何もしてない」 「じゃあ何で逃げるの」 「逃げてるわけじゃ…」 「俺のこと、嫌いになった?」 「…っち、違うよ…!」 悲しげに揺れる瞳に咄嗟にそう返せば、兵助君は幾分かホッとしたように表情を緩ませた。それを見て、私まだ好きでいて貰えてるんだと実感するなんて、本当に大馬鹿者だ。不安にさせたのは私だって同じなのに。 「ごめんね兵助君」 「え…」 「違う違う!兵助君が嫌いだとかそういうのじゃなくて、」 「…びっくりした」 「うん、あの…その、私…さっき兵助君が女の子からクッキー貰うのちょうど見てて…」 「うん」 「それで、ああやっぱり兵助君モテるんだなぁーって実感して、それで、わ…私、もしも兵助君が他の女の子好きになったらどうしようって」 「…………」 「…つまり小さい子どもみたいにヤキモチ妬きましたすみません」 ぽそりと付け足すようにそう呟けば、目の前の兵助君は深く深く溜め息を吐いていた。ああどうしようやっぱり呆れられてるよね恥ずかしい。 「リョウは俺がリョウ以外の子好きになると思うんだ」 「だ、だって子どもの頃に兵助君と会ったのが私ってだけだし」 「じゃあ俺が何のためにリョウの記憶をもう一度取り戻したり、"眼"を開かせたりしたと思ってるの」 「それは…」 言いよどむ私の頬から手が離れていく。するりと包み込むような体温がなくなり、風が頬を撫でた。 「俺は、小さい頃初めに会ったのがリョウだからとかそういう意味で好きなんじゃない」 「…………」 「リョウだから好きなんだ」 真っ直ぐに向けられる言葉が、私の心に染み渡っていく。苦しかった心が、ふわりと浮上するように軽くなった。私はいつも、兵助君に助けられてばかりだ。 「……私も、好き…です」 「でもリョウがヤキモチ妬いてくれるのは、ちょっと意外」 「…ごめん」 「むしろ嬉しいけど」 「…え?」 傍らの兵助君を見返せば、ニコニコと満面の笑みを浮かべている。打って変わったその様子に、今度は私が目を白黒させる。 「リョウがヤキモチ妬いてくれるなら、またクッキー貰おうかな」 「兵助君…!?」 「嘘、冗談」 可笑しそうにはにかんで、顔を真っ赤にする私へ触れるだけのキスを落とす。そこにいたのは、いつもの、私の好きな烏天狗様だ。 「クッキーも甘いらしいけど、俺はこっちの方がいい」 「………っ!」 風立ちぬ 番外編 *嫉妬する花嫁様 「リョウはクッキー作らないの?」 「…練習します」 |