"龍神様に花嫁を差し出せば、きっとこの地は救われる" 村長である父上が、泣きそうに顔を歪めながら私へそう告げた。何を泣くことがあるのです、父上。この地を旱魃から救う方法がある。私達の生きる術が残されてる。こんなに嬉しいことはないのだ。そして、その役目は私。花嫁として、人柱として、龍神様にお仕えできるのだ。だから、この頬を流れる涙は、きっと嬉し涙に他ならない。 この地を大旱魃が襲ったのは、私が十六の頃のことだ。 雨の降らない日が続き、日に日に大地は乾ききっていく。私達麓の村人は恐れおののいた。このままでは、私達はきっと生きていけない。水は私達にとって、それほどに大切な生きる糧だった。 村の外れに森に囲まれた。一つの大きな湖があった。村に伝わる伝説に、この湖には龍神が住むと言われている。見た者などいないが、遥か昔より伝わるその伝説は深く私達に根付いていた。そして龍神様の花嫁となれば、その者はこの地に雨を齎す眷属となれるだろうという誠か嘘かも分からない言い伝えである。 その湖ですら、日に日に干上がってしまうほどの日照りに、私達は最早これまでと絶望した。湖の岸で、私は必死に祈った。私達が生きていくためにと干上がっていくこの神聖な湖から桶一杯の水を戴いていくことの罪深さを恥じながら。それでも目を閉じて、ひたすらに祈り続けた。 どうかこの地に雨を。 水の恩恵を。 そのためなら、 私は。 白装束に身を包み、村人達の声を背に、私はこの湖へと足を進ませる。手を縄で縛り、足に重りを付け、今更震える唇を噛み締めて湖へと深く深く身を沈めた。正直怖くないわけがない。身を凍らせるような冷たさに震えが止まらない。きっとこの震えはそのせいだけじゃないことは分かってる。けれど私は、頭の中で響く自分の声を必死で知らないフリをし続けた。 ねぇ、もしも怖いと叫んでここを逃げ出せば、村は、村人はどうなるの。 私を最後に力強く抱き締めた父上は、泣きながらこの白装束を私へ着せた母上の、思いはどこへいくの。 そんな思いだけが、凍り付く私の足を前へ前へと進ませる。ごぼりと、足が付かないような深くまで。堪えきれない苦しさに私が耐えきれなくなるまで。ぎしりと縄が重りが、水中で私を戒める。 龍神様、きっと村を助けて下さい。そうでなければ、私は何のために湖へ身を沈めるのか。 ここなら、涙が流れたことを誰にもきっと気付かれない。ねぇ本当はとても恐ろしいの。本当は逃げ出したいの。天秤になど掛けられる筈もない思いが胸を掠める。 龍神様、私には夢があるのです。それはもう一度笑って暮らす村人を見られること。たった一つの愚かな願い、どうか叶えてはくれませんか。 遠のいていく意識で誰かが私を抱き締めた。耳元で響く声に、私はようやく笑って、瞳を閉じた。 鏡のように澄み切った湖に手を差し入れれば、冷たい水の感覚が肌を刺した。ゆらりと波紋が広がり、水面に写る私の姿が歪む。掌から零れ落ちる水は、かつてどれほどに私達が待ち望んだものか。 「リョウ」 静かに響いた声に、私は過去を思い返していた意識からパッと引き戻される。顔を上げて後ろを振り返ろうとすれば、それより早く後ろから包み込むように抱き締められた。さらりと黒髪が視界の端に映り、頬を撫でる。 「兵助、」 名前を呼べば、更に強くなる腕の力に苦笑しながら身を捩ってその顔を仰ぎ見る。長い睫毛の縁取る真っ直ぐな瞳が、どこか憂いを孕みながら私を見つめ返した。 「どこへ消えたかと思って、探した」 「どこへも行かないよ」 くすりと笑えば、憮然とした様な表情を浮かべて私の肩へ額を預ける。まるで置いて行かれた子どものようだ。 「少し、昔を思い出してただけ」 「…昔?」 「うん、この湖が枯れてしまいそうになった頃」 兵助の腕から抜け出し、ひたりと足先を湖へつけた。着物の裾が濡れるのも気にせず、波紋を生みながらゆっくりゆっくり足を進める。 「こうしてると、あの時を思い出すの」 本当に怖くて怖くて、けれど必死にそれを隠しながら足を進めて。縄に縛られた腕が痛くても、足に括られた重りが重くても、村人の期待を一身に背負いながら、私は一度この湖で命を落とした。 「兵助が、私をもう一度この地に甦らせてくれたことも、ちゃんと覚えてる」 沈みゆく身体を抱き締めて、縄も重りも外して、私の耳元で呟いた言葉に、私は笑って応えた。そして私は、兵助の眷属として、花嫁として、雨を齎す精霊として、彼と共に"生きている" 「なぁ、リョウ」 だから、そんな泣きそうな顔を彼がする必要はないのに。苦笑しながら、私に呼び掛けた兵助の元へと引き返す。その白い滑らかな頬へ手を伸ばせば、握り返され指先に口付けられた。 「…リョウは、後悔してないか」 「どうしてそう思うの」 「だって、村を守るためとは言え、人柱みたいなものだろう。本当はまだ、生きていたかったんじゃないのか」 伏せた瞳を向けながら、彼の双眸が私を見て悲しげに揺らぐ。対照的に私は笑みを浮かべて彼の腕へと飛び込んだ。 「兵助は、私の願いを、夢を叶えてくれたじゃない」 もう一度、笑う村人を肥沃な大地に生きる彼らを、私は見たいと願った。私の齎す雨を肌に受けて、優しく目を眇める彼らを見守ることができる。私を忘れてしまってもいい、けれどきっとこの雨を、彼らは喜んでくれるのだ。私はそれだけで、幸せだ。 「兵助は、私の願いを叶えてくれた。だから今度は、私があなたの願いを叶えるよ」 遠のく意識の中で、彼は私を強く抱き締めてこう言った。 "リョウの願いを必ず叶えるから、だから、俺の傍にいて" あの時の彼の声がどうにも寂しげで、私は彼の隣にいたいとただ無意識にそう思った。永い時を生きていくのは、きっと私なんか想像も付かないような孤独だ。一目合って、ただ純粋に惹かれた。きっかけは何でも、私は彼と生きていきたい。 「兵助、私はずっと傍にいるよ。もう独りじゃないでしょ、ずっとずっと一緒。私、今すごく幸せだよ」 「好き、ずっと好きだった、ごめんなリョウ、卑怯でも何でも、どうしてもリョウが欲しかったんだ。約束で縛って、ごめん」 そう零す兵助が、優しく私に口付ける。謝ることないのに、どうしたら伝わるだろうか。この孤独な龍神様へ、どうか私の心がほんの少しでも伝わればいい。そう願い、私は緩やかに瞳を閉じた。 → |