みんなに見えない怖いものがわたしを追いかけてくるの。髪の毛引っ張ったり足を引っ掛けたりどんって背中を押したりわたしにだけ見えるの、だからみんな信じてくれないの

こわいよこわいよ

もうあんなこわいもの、わたし『見たくない』見たくない、見たくない、怖いものは、わたしもう


『見たくない』


幼い頃、よく変なものを見た。他の誰にも見えない、私しか見えない。それは人間じゃない形をしていたり、人間なのにどこかおかしかったり、それらは私が見えるからなのか、よく悪戯をされたりちょっかいを掛けられたり、そんなことが多々起こった幼い私は、それらが怖かった。幼い子供は自分に害を与える対象が恐ろしい。故にそれらは私の恐怖の対象だった。だから私は見ることをやめた。本能的にその『眼』を閉じたのだ。そして私の記憶は奥深くへ閉じ込められた。思い出さないように、『怖いもの』が私を支配しないように。



「………?」

薄っすら目を開ければ、そこは鬱蒼とした森だった。太陽はほとんど沈みかけていて、夕暮れのオレンジが森を染めていた。どこか遠くで、カラスが鳴いている。ここはどこだろう。どこかで見たことがある気がする。

「千鶴」

「っ!…久々知、くん…?」

声がして、私は思わずハッと顔を上げた。私はどうやら高い木に寄りかかるようにして眠っていたらしい。辺りを見渡すが、久々知君の姿はどこにもない。あれっと首を傾げたところで、上だよと今度は私の真上の枝から久々知君の声が降ってきた。急いで立ち上がって、上を見上げた。そこには、誰もいない。

「…久々知君、だよね…?」

声がしたはずなのに、そこには誰も居らず鬱蒼とした木が広がっている。辺りをぐるりと見回してみるが、やはりどこにも彼の姿は無い。ひゅるりと吹いた風が何故か肌寒くて、私は体を縮込ませるように抱きしめた。ここはどこだろう。

「久々知君、ど…どこにいるの?」

「ここにいるよ」

ざわりと風に揺れる森に、何故か久々知君の低い声がはっきりと聞こえる。やはり彼の姿はどこにもない。だんだんと暗くなる森、見えない姿に嫌な焦燥感が溢れる。こわいものは嫌い、

怖いものは、見たくない

「俺のこと、見えてるか?」

「…見えない」

ダブるような記憶の欠片が、さっきから脳裏を掠めていく。見たくない、と思うのに反して私の心がそれを懐かしんでいる。思い出したい、思い出したくない、相反する心の声がせめぎあった。風がぶわりと舞った、思わず目を瞑って、ばさばさと乱れる髪を押さえた。

「これなら、見える?」

風が止んで、そっと目を開いた私の頭上からさっきと同じように声が降る。大きな木の枝の上に、制服に身を包んだ久々知君の姿が現れた。どうやってあんなところへ昇ったのだろう、制服で動き辛いだろうに。そもそもあんな枝の上に、よく平然と立っていられるものだ。

(……あれ、)

私、前も同じことを思わなかった?静かだった鼓動が、徐々に速さと大きさを増して体中に響く。するりと背中を冷や汗が流れ、私は思わず戦慄きかけた唇を掌で覆って隠した。久々知君の綺麗な黒髪が、風に揺れる。どくんどくん心臓の音が五月蝿い。

「…俺と千鶴が初めて会ったのは、ちょうどこの場所なんだ」

久々知君が、ゆっくりと口を開く。風がぶわりと舞った、いつかと同じ風が。記憶が重なる、あの時と同じように、軽やかに音もなく高い木の枝から飛び降りて目の前に着地。そして、夢の中の私はこう言ったんだ。

「…『ここら辺に住んでるの』」

するりするりと、糸が解けるように記憶が蘇っていく。緩やかに、「へいすけくん」は微笑んだ。

「『いや、俺は里には住んでない』」

「『じゃあどこに住んでるの?』」

「『…山神様の山の住人だよ、ずっと昔から』」

ああ、そうだそうだよ。思い出したよ。あれは夏の暑い日で、蝉時雨に溢れかえる森の中で、私は迷子。森から出られない神隠しの子。そこへへいすけくんは現れた、泣いてる私へ声を掛けた。遊び相手になってくれた、話し相手になってくれた。この森の、花の美しい場所も、動物たちの隠れ家も、全部全部、この人が教えてくれた。けれど私は記憶を閉じた。異形を見えることが恐ろしくなってしまった。妖怪に関わりたくなくなってしまった。だから私は、へいすけくんを記憶の底へ閉じ込めた。神隠しから私を助けてくれた、へいすけくんとの約束を私は記憶の彼方へ追いやってしまったんだ。

「久々知君、…へいすけ…、兵助君」

「……千鶴」

「今まで忘れてごめんなさい、見たくないなんて思って…ごめんなさい…っ」

はらりはらりと零れ落ちていく雫を、兵助君は指でそっと拭い去る。その指先は相も変わらず冷たくて、けれど何故か暖かかった。

「千鶴、思い出してくれた?怖い思いしたんだろう?もう大丈夫だ、俺がちゃんと守ってやるから、だからちゃんと、」


俺を見て


長く閉じられていた『眼』がようやく開いて、私の奥底にあった記憶がふわりと浮上する。兵助君の正体、パサリと真っ黒な羽が私を包み込んだ。突風がその場に渦を巻くようにざぁっと木々を揺らす。涙で滲む視界を一回閉じて、そっと目を開いた。はらりと溜まってた涙が零れ落ちる。目の前にいたのは、先ほどと打って変わって長い黒髪を風に靡かせる久々知君。着ているものも、制服から着物のようなもの、そして高下駄。あの頃と同じ、けれどあの頃よりも遥かに大きくなった兵助君が目の前で微笑んでいた。

「…兵助君は、烏天狗の妖怪」

まさに烏の濡れ羽とも言うべき漆黒の羽が、そっと頬を撫でる。それに頬を寄せて、私は目を閉じた。

「兵助君は、怖くないよ」

幼い私の、大切な友人そして、私の恩人。ぐっと、腰を引き寄せられて羽よりももっと暖かい腕に強く抱きしめられる。背中に回った掌が離さないとでも言うようにきつく私の制服を握り締め、兵助君の鼻先が首筋を掠める。あの頃よりも随分と大きくなった彼は、私などすっぽりと覆ってしまう程に成長していて。何故だか昔との違いを感じたと同時に、どきりと心臓に甘い痺れが走った。




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