気がつけば、目の前に一つの小さな社が現れていた。カランと軽やかな高下駄の音が、静かな社に響く。抱えていた私をその場に下ろすと、少年はスタスタと鳥居を潜っていく。その後を追うように、私も慌てて走っていく。蝉の音と、私の走る足音しか聞こえない。少年を追いかけていけば、やがてコポコポと水の音が聞こえた。

「ほら、これ山の湧き水」

「…飲んでもいいの?」

「いいよ」

こくりと無表情で頷かれ、恐る恐る湧き水に手を差し伸べる。キンと冷え切った水が、火照った手のひらを冷やした。そぉっと掬って口を付ければ、冷たい水が喉を潤す。ごくりごくりと水を飲み干し、ぷはっと息を漏らした。

「おいしい!」

「よかったな」

「うん、ありがとう!」

社の木の傍に座っていた少年の前にちょこんと向かい合って座る。ぱちぱちと長い睫毛を瞬かせてこちらを見つめると、ふと優しげに微笑んだ。

「お前、名前は?」

「千鶴!お兄ちゃんは?」

「…久々知、兵助」

「ふーん、変わった名前だね」

「そうか?」

「へいすけくん!」

「ん?」

「呼んでみただけ!」

くくち、へいすけ。一体どんな字を書くのか、幼い私には想像もつかない。ただ、この不思議で綺麗な少年にはぴったりだとどこか心の片隅で感じる。風に揺れたへいすけくんの綺麗な黒髪に目を奪われる。それだけじゃない。『山神様が住んでいる』そう思わせるだけの何かが、この山には満ちていた。

「へいすけくん、いつも何してるの?」

「いつも?んん…さっきみたいに森の中を駆け回ったり、里の様子を眺めたり…」

「一人で?」

「いや、まぁ一人も多いけど、他の山に住んでる奴らとか…」

「他にもいるの!?」

山にそんなにたくさんの人が住んでるなんて思いも寄らなかった。会えるかな、会ってみたいな。へいすけくんみたいに、風になったりたくさん不思議なことをできる人達だろうか。そんな私の心のうちを悟ったのか、へいすけくんは可笑しそうに肩を震わせた。

「今鳴いてる蝉だって、今は隠れてる狸だって兎だってこの山の住人だぞ?」

「あ、そ…そっか…」

「多分、千鶴が知ったら驚くぐらい、この山にはたくさんの“モノ”達が住んでるよ」

耳を澄ませるようにへいすけくんは目を閉じる。それに倣い、私も同じように目を閉じてみた。水の音、風の音、虫の声、鳥の声、葉の揺れる音。たくさんのモノ達の音がこの空間に満ちていた。

「じゃあ、へいすけくんは寂しくないね」

私のその言葉に、へいすけくんは何処か寂しげに笑ってみせる。そのうち、へいすけくんが立ち上がり再びこちらに手を差し伸べる。

「千鶴、俺ともっと遊ぼう」

退屈な私への、最高に素敵な誘い。顔を輝かせた私は、差し伸べられた掌に飛びついた。


 


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