あれは、私がまだ幼少の頃の話だ。 蝉時雨に溢れかえる森の中を、私は宛てもなく進む。頬を汗が伝う。がさりと足元の落ち葉を踏みしめながら辺りを見渡す。もう何度同じことを繰り返しているのだろう。 「…どっから来たんだっけ…」 夏休みに訪れた田舎の祖母の家。自然に囲まれたその家の近くに、小さな山があった。『あの小山には山神様が住んでるから、軽々しく足を踏み入れちゃいけないよ』そう、いつも祖母から口を酸っぱくして言われていた。大自然に囲まれた田舎に同世代の友人もいない私は、とにかく暇だった。両親や祖父母はそんな私を見兼ねて色々と世話を焼いてくれてはいたけれど、それでもやはりつまらなかった。だからだろう、ほんの好奇心だった。言いつけをほんの少し破ってみようかなんて、小さい子供の愚かな過ちだ。 私はあの日、山神様の住むその山へ足を踏み入れてしまった。 「…うぅ…どうしよぉ…」 ボロボロと目から溢れてくる涙を服の袖で拭いつつ、私はその場で蹲った。声を上げて泣いていれば、もしかしたら誰か来てくれるかもしれない。気温も高いせいか、のどが渇いて仕方ない。歩き回って足も痛いし疲れきってしまった。このまま、誰も迎えに来てくれなかったらどうしよう。そんなことを考えていれば、再びじわりと視界が滲んでいく。泣いたってどうにもならないことぐらい、今の私になら分かる。それでも、とにかく森の中で私はわんわんと大声で泣いていたのだ。 「おい」 そんな時だった。一瞬ぶわりと大きな風が吹いたかと思えば、頭上から声がした。少年の声。見上げれば、大きな木の枝に長い黒髪の少年がこちらを見下ろしていた。 「…?」 「俺のこと、見えてるか?」 「う、うん…見えるよ?」 ぽかんと私はその少年を見上げていた。鬱々とした暑さを吹き飛ばすような風が、彼の黒髪を揺らす。 「さっきから、何を泣いてるんだ?」 少年が、もう一度こちらに問いかけた。遠目からだが、少年は山伏のような格好をしていた。おまけに随分と高い下駄を履いていた。よくあんな高下駄で細い木の枝に立っていられるものだ。今更ながら思ったけれど、あの時の私には、そんなこと考える余裕なんてなかった。 「や、山から出られなくて…っ、お、おばあちゃんの家…っか、帰りたっ…」 喋っている間に、自分が迷子になったという事実を再認識してまた涙が溢れてくる。しゃくりあげながら話す私に少年は大きく肩を竦めると、高い高い木の枝から飛び降りた。 「わぁ!?す、すごーい…!!」 「…そうか?」 軽やかに、音もなく目の前に着地してみせる少年に、幼い私は目を白黒させた。先日見たテレビの中のヒーローはこんな風に登場していた気がする。驚きのあまり涙も引っ込んだ私の顔を、少年は覗き込んだ。私よりもほんの少しだけ大きい背丈。黒目がちな瞳に真っ赤に泣きはらす私が写りこんでいた。睫毛がすごく長くて、この暑いなか、そんな着物を着ているのに、汗一つかかないで涼しげな顔をしている。とても、不思議な人。 「…ここら辺に住んでるの?」 「いや、俺は里には住んでない」 「じゃあどこに住んでるの?」 「……山神様の山の住人だよ、ずっと昔から」 さわりと涼しい風が私達の間を駆け抜ける。まさかこんな山の中に人が住んでるなんて思わなかった。祖母に決して入ってはいけないと言われていたから、誰も住んでいないものと思ってたのに。ぽけっとした表情を浮かべた私に、一度だけ苦笑すると、そっと頭を撫でられる。冷たい指先が額を掠めた。 「それにしても、珍しいな。人間の子どもなんて。この山には近寄っちゃいけないって知らないのか?」 「おばあちゃんの家に夏休みだけ泊まりに来てて、それで…あの…おばあちゃんには、入っちゃダメって言われたんだけど…」 「そうか、言いつけを破ったな」 「…ご、ごめんなさい」 「別に俺は怒ってないから泣くなって」 べそべそと泣き出した私の目尻を冷えた指先がそっと拭う。困ったように笑うその表情に、鼻を啜りながら私はどうにか泣き止んだ。喉がからからだ。 「…の、喉、渇いた…」 「喉?ああそっか、暑いからな、今日は」 ちっとも暑くなさそうな顔で木々の覆う頭上を見上げた。屈めていた体をよいしょ、と伸ばすと、すっと私に手を差し伸べた。 「?」 「水のあるところ、連れてってやるよ」 「え、でもどう…っわあ!?」 ぐいっと手を引かれ抱えられたと思えば、次の瞬間には地面が遥か遠く。ぱくぱくと驚きの声を上げる間もなく、枝をその高下駄で蹴る。流れていく木々の景色と、風を切る感触。私を抱えるその少年を見上げれば、どこか楽しそうな、そんな表情をしていた。 「すっごぉぉーい!!鳥みたい!」 「怖くないか?」 「怖くないよ!凄いね!速いね!」 今まで体験したこともないような速さで木々の合間を駆ける。まるで風にでも溶け込んだかのような感覚に、私は瞳をキラキラさせた。風を切って駆け抜け、流れていく深緑の木々。どこまでも行ってしまいそうな、そんな高揚感が胸を弾ませた。 → |