頬を、切るような速さで宵の風が吹き付ける。

あまりの速さに残像だけが横切っていく景色。暗い森を越え、祖母の村を越え、やがて見覚えのある町並みが眼下に広がった。ポツリポツリと灯る明かりがさっきまでの三郎さんの狐火のように淡く光って見える。私を抱きかかえている兵助君の着物をぎゅっと握り締めた。

「千鶴、寒い?」

「ううん、あっという間に森から町に着いたなぁって…」

「風に乗ってきたから」

吹き抜ける風が兵助君の風切り羽を揺らした。私を抱きしめる掌に力が込められ、パサリと漆黒の羽が広げられる。

「さぁ、千鶴の家まであと少しだ」

私の返事は、風の中に溶けて消えていった。




「はい、到着」

「はぁー…相変わらずジェットコースターみたい…」

「じぇっとこーすたー?」

「うんと、物凄く早い乗り物のこと」

「へぇ」

さすが山育ち。遊園地の人気アトラクションを知らないとは。私の回答に興味津々な表情を浮かべながら長い睫を揺らしている。さすが風を操る妖怪、そういうのに目が無いらしい。正直安全装置も何も無い兵助君との飛行の方が何倍もスリル満点なんだけども。ぶわっと風が舞って、兵助君は山伏姿から髪の短い制服姿へ早変わりする。便利でいいなぁ。確かにこんな住宅地であの格好は目立つもんね。って言っても妖怪姿の兵助君は見える人にしか見えないのだけれど。

「じゃ、行こうか千鶴」

「うん………って、え?」

つい誘われるがままに兵助君の後ろを歩き始めてしまったけれど。いや、あの、ちょっと待って。今現在のこの場所、我が家の玄関前である。私はてっきりここでありがとうまた明日という流れになるものだと思っていたのだけれど、どういうことか兵助君は勝手知ったるといった様子でずんずんドアへと進んでいく。ちなみに、中からは明かりが漏れており、私の両親はどちらも在宅だ。まさかそんないきなりご両親にご挨拶とかそういう流れ?あの兵助君のことだ、婚約しましたぐらいのこと平然と言ってみせる。さぁっと私の顔から血の気が引いた。確かに婚約しました、ええしましたとも16歳という若い身空ですが!でも待ってご挨拶はまだ私、早いと思うよ兵助君!

「兵助君、ちょっと待っ…!!」

「ただいま戻りました」

「あらお帰り兵助君、千鶴も一緒かしら」

「はい」

「…………え、?」

目の前で繰り広げられた信じられない光景に、私は我が目を疑った。私のお母さんと兵助君がまるで顔馴染みかのように会話をしているのだ。それに兵助君、今何て言った?「ただいま戻りました」って、それって、え、どういうことでしょうか。パニックを起こし始めた私の手のひらを、冷たい何かがきゅうっと包み込む。その手の持ち主を見つめれば、ゆっくり穏やかに微笑んでいた。動揺しまくっていた思考がストンと落ち着く。

「さ、もうご飯出来てるから、早く入りなさい」

暖かな光の零れる我が家へと、私は兵助君に手を引かれながら足を踏み入れた。





「で、どういうこと?」

事情の全く分からないまま、兵助君を交えて何故か夕飯が始まり、お父さんの「それにしても兵助大きくなったな〜」という言葉や「こんなカッコ良くなってるなんておばさんビックリだわ〜」という言葉に愛想良く受け答えている兵助君に私はただ目を白黒させていた。烏天狗の妖怪である兵助君が隣で嬉しそうに豆腐を突付いてる様子が何だか夢なのか現実なのか分からないまま、そして何を食べたのかいまいち思い出せないまま夕飯を終え、当たり前のように居座っている兵助君を私の部屋へ押し込めたところで、冒頭に戻る。

「何が?」

「何がって…なんでうちのお父さんもお母さんも兵助君のこと知ってるの!?しかもまるで小さい頃からの知り合いみたいだし、そして何故平然とうちの食卓に加わってたの?!」

「ああ、そのことか」

私と兵助君の温度差に何だか遣る瀬無さを感じてしまうが、これだけは答えてもらわないと納得できない。いきり立つ私をするりとかわすと、兵助君は私のベッドに腰掛けて隣をポンポンと叩いた。座れということらしい。何故そんなに寛いでいるの兵助君…。烏天狗の妖怪じゃなくて本当はぬらりひょんじゃないのあなた。何だかこの暖簾に腕押しな状況が馬鹿馬鹿しくなって、はぁとため息を一つ零すと大人しく兵助君の横へ座った。

「話せば長いんだけど」

「うん」

「千鶴の両親に術を掛けたんだ」

「は!?」

淡々と告げられた真実に、思わず目を剥いてしまう。詰め寄りそうになった私に落ち着けと目で訴えながら、兵助君は長い睫毛をパチリと瞬かせた。

「じゅ、術って…?」

「まぁ単純なんだけど、千鶴の両親は俺のことを親戚の子どもだと思い込むようにって掛けた呪なんだ。親戚の子どもをしばらく預かることになったって、ね」

「親戚の子ども…?あ、でも小さい頃がどうのって、」

「ん、昔の記憶を作って植えつけてみた」

「いつの間に何してくれちゃってるの!?」

「森で千鶴にちょっと待っててもらった時あるだろ?白い花探しがてらついでに術も掛けてこようかなって、ひとっとび」

「……………」

最早何も言うまい。そうだった、どんなに普通の男の子に見えようが兵助君は烏天狗の妖怪なのだ。術を掛けたり遠く離れた森から街までをほんの数分で駆け抜けたり、造作もないことなのだ。諦めの境地に至った私は、はぁと大きくため息を漏らした。

「その術…別に他の記憶にまで影響出たりしないんだよね…?」

「うん大丈夫、無害だから」

「それならいいけど…ってことは兵助君、今日から一緒に住むってことだよね…?」

「そう」

「でも兵助君なら数分で山から駆けてこれるんだから、山から来ればいいのに。何でわざわざうちに住むことにしたの?」

兵助君の家、というか住処はあの山神様の山だ。わざわざ私の両親に術を掛けてまで一緒に暮らすことなんかないのに。兵助君なら数分で駆けて来られる。それに、山には尾浜さん達も住んでる。住み慣れた場所のほうがきっといいに決まってるのに。

「そんなの決まってるだろ」

拳一つ分開いた距離が一気に縮められる。ぎゅうっと手を握り締められ、隣に座る兵助君が私の顔を覗き込んで柔らかく微笑んだ。


「俺が千鶴と離れたくないから」


頬を手のひらで包まれて、覗き込んでいた兵助君の顔が近づく。おろおろと思わず視線を彷徨わせて思わず逃げ腰になりかけるけど、手が繋がれたままでぎゅっと力が込められた。あう、逃げれない。固く目を瞑る。微かに唇が触れ合ったその時だった。

「千鶴ー!兵助くーん!梨食べる〜?」

「!!?」

握られていた手のひらを振り解いて、思い切り兵助君の肩をどんっと押し返す。階下から掛けられた母の声に体がまるで条件反射のように動いたのだ。一瞬止まりかけた心拍がまるで全力疾走の後のようにばくばくしている。慌てて兵助君から離れるとドアを開けて母に「は、はーい!今行くー」と何気ない風を装って返事を返した。い、いけない…!完璧兵助君に乗せられてたけど家は危険すぎる…!気をつけないと…!ドアノブを握り締めながら改めて肝に銘じさせる。一応兵助君が掛けた術では、兵助君は親戚の子どもってことになってるんだ。し、親戚はきっとこんなことしないんだから、こんな場面見られたら一体どうなるのか想像も付かない。人の目があるということを常に念頭におき気をつけて生きていくことにします神様仏様…!

額をドアに押し当てて反省していたそこへ、トントンと肩を突かれて思わず無意識に振り返った。



ちゅ、



唇に触れた熱と、感触と、その後嬉しそうに微笑みながら離れていく兵助君がまるでスローモーションのように私の目に映る。ああ、キスされたのか。そう理解したと同時に、顔から火が出るんじゃないかというほど一気に赤面した。

「なななな…っ!?」

「ん、これでよし」

「よ、よしじゃないでしょうがー!!!」

にこにこと嬉しそうな烏天狗様が満足そうに私を抱きしめて擦り寄る。今日からこんなに毎日心臓に悪い思いをしなくちゃいけないのかと思うと、若干げっそりしてしまう。

「千鶴、これから毎日一緒だな」

「…………うん、」

それでも、ちょっと嬉しいなんて思ってしまう自分がいるのも、また事実なのである。


nobody knows






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