「…そんな格好でどうしたの?」 久々知は袴姿のままだった。さっき弓道場には明かりが付いていた。恐らくそのまま走って来たのだろう。忘れ物でも慌てて取りに来たのだろうか。 「…いや…さっき弓道場から教室の明かりが付いてるのが見えて、まだ誰かいるのかと思ったら突然停電したから…」 言いにくそうに髪を掻き撫でながら、ポツリと久々知は零した。ふうん良いところもあるんだ。今まで全力でマイナス寄りだったベクトルがほんの僅かに揺れた。1ミクロン程度。 「まぁ、この通り大したことないから早く着替えて帰った方がいいよ」 じゃ、ご心配どうもありがとうと久々知の突っ立っている真横をすり抜けようとした。 「……っリョウ!」 パシッと突然掴まれた手首の感触に、私は思わず顔をしかめた。掴まれた腕を辿ってその張本人である久々知を見上げれば、必死そうな表情を浮かべて私を見つめ返していた。沈黙が満ちる。 「………なに」 低い私の声。自分で思ってる以上に不機嫌らしい。久々知は私の言葉に長い睫を震わせながら、それでもキュッと手首を掴む手に力を込めた。 「この間は…ごめん」 「それは、何に対してのごめんなわけ?」 「俺の行動で、リョウを傷つけた」 だから、ごめん。弱々しい声音がポツポツと紡がれる。私と誰かを重ねていたこと、その事実に果たして私は傷付いていたのだろうか。あの時の渦巻いた感情は、私自身も持て余す程の怒りだった。それが、傷付いたということなのかもしれない。 「もういいから、私じゃなくてその“誰か“にちゃんと謝んなよ」 「…それは、違うんだ…」 「は?」 「あの時驚いてちゃんと言えなかったけど、本当に誰かをリョウに重ねてなんかいないんだ」 「嘘付くのもいい加減に…っ」 「嘘じゃない!!」 掴まれた腕が強く引かれ、私の体はよろめく様に久々知の胸に飛び込んだ。ぎゅうっと頭と背中に回された腕。真っ白になった頭で、逃れようともがくがびくともしない。 「離して…っ」 「リョウが信じてくれるまで、離さない」 「勝手なこと言わないでよ…っ、どうやって信じろって言うわけ?あんたからそんなに無条件で好いてもらえるような、私はそんなんじゃない!私の何が好きかも久々知自身が分かってない癖に、何でそんなこと…っ」 「ちゃんと俺を見てくれる、リョウの目が好き」 「…?」 「俺に真っ直ぐな言葉をぶつけてくれる、リョウの声が好き」 「………」 「小さいけど、暖かいリョウの手も好き」 一つ一つを口にしながら、辿るように久々知の指が、目元口元をなぞる。 「俺がこれだけ好きって言っても絶対に自分の意志がそこにない限り、流されないし靡かない、リョウの正直で真っ直ぐな心が好き」 両方の手のひらをぎゅっと握りながら、久々知が私の顔を覗き込んで微笑んだ。 「だから、俺は」 空に雷光が轟いた。 「リョウの全部が好きだ」 真っ直ぐ射抜くように見つめる久々知の眼差しに、私は最早二の句が告げなくなる。なんて恥ずかしいことを口走っているんだ。そしてこの態勢。いい加減離してくれないんだろうか。はぁ…とため息を吐いた私を、眉を下げながら覗き込んでくる久々知。何でそんな好かれたんだか、全く理解できない。できない、が。 (…今のは何となく、嘘じゃない気がする) 確信みたいなものはないが、所謂女の勘ってやつだ。そもそもあんな愛しむみたいな瞳で見られたらそれこそ何となく絆されてしまう。厄介な奴に捕まった。 「リョウ、リョウ、また俺何か傷付けること言った?嘘は付いてないし、全部本当なんだ。だから、もう避けないで」 「あーもう分かったってば!こないだのは私も態度悪かった!ごめん!はいこれで仲直り、友達友達」 ブンブンと両腕を握手の要領で大きく振ってやれば、へにゃりと嬉しそうに顔を緩めた後で何だか釈然としないように口をへの字に歪めていた。なに、何かご不満? 「リョウ、友達じゃなくて俺はリョウの恋人に」 「調子に乗るな」 「すいませんでした」 捕まっていた腕を振りほどいて、さっさと背中を向けて帰ろうとすれば、後ろからパタパタと慌てたように追いかけてくる。何こいつ犬…?待てよ飼い主は私か?それは嫌だ。 「リョウ!一緒に帰ろう!雷鳴ってるし雨だし暗いから送る!」 「久々知、あんたその格好で帰るわけ?」 「!」 「お先に、また明日〜」 「っ…待ってリョウ!着替える!着替えるから待ってて!」 走り出した久々知に、私が思わず苦笑を浮かべてしまったことは誰も知らない。 ← |